第29話北条琴
秋深し。
紅葉が濃度を高め、これから来る寒さを事前に知らせようと赤みを膨らませた。
太陽は高度を低め、わずかの明かりがそれでも拙く、新郎新婦を祝福している。
九州平定が終わり、約束通り秀繁は北条家から琴姫を娶ることとなった。
側室ではあるが、200万石を越える大大名の北条家からの嫁入りである。
祝言をあげないわけにはいかなかった。
名目上の奥の取締役、小春は臨月である。
「動かなきゃ大丈夫です」
そう言って、実質上の取締役からも離れようともしない。ウロウロ指図をして周っている。
なんでも、自分の婚礼のときの不平・不満をこの場にぶつけようとしているようであった。
実際、小春は正室ではあるが、実家がないため立場が弱い。
歴史上、正室より権力を持った側室などいくらでもいる。
今度
「琴です。これから末永くよろしくお願いします……」
小柄で真っ黒な長い髪に、透き通りそうな白い肌……
消え入りそうな声に、最初に言葉をもたらしたのは秀繁ではなかった。
「うわっちゃあ~」
やってしまったという小春の表情と声。
あれは秀繁が下種の勘繰りをするに、琴が自分よりも可愛いために、寵愛が薄れることを覚悟した小春の魂の叫びだ。
「大丈夫。私はおまえの方がタイプだ」
たいぷ? と聴いて、小春は何のことかわからず、不思議そうな顔をする。
エゲレス語での夫から正妻への秘密の告白は、目論見通り不発に終わる。
こんな言い方でもしない限り、側室との婚礼日に、目の前で正室に愛の告白など出来たものではない。
「なあ、たいぷって何なん?」
小春は周囲のものに聴いて回る。
だが、それに応じられるものは誰一人いるわけがない。
秀繁家中で物知りと評判の半右衛門に尋ねるが、半右衛門は秀繁と目くばせすると、
「知りませんな」
と言ってかわした。
(殿、貸しですぞ)
半右衛門の眼はそう言っている。
「台風のような方なのですね。御正室さまは……」
「う、うむ。悪いやつでは決してない。器量、度胸、愛嬌を併せもったなかなか出来た正室だ」
直に言ってやれば良かったと、秀繁は後悔した。
もし秀繁が現代に戻ることがあっても、小春のような女性とは縁遠いであろう。
小春は生まれてくる時代を440年ほど間違えた、かなりの美女なのだ。
「はい、世の中には正室と側室が争って殺し合いをしたり毒を盛ったりということもよくあるそうなのです……」
「よく知っておるな」
「はい、
「なかなかに博学だ」
「書物が好きなのです……」
「ほう、源氏物語やら枕草子なぞは一揃えあるぞ?」
「いえ。史記、資治通鑑、孫氏、呉氏、六韜などを嗜んでおります……」
さすがは北条家の娘だ。
よく見れば、面構えがそこらの女性とは違う気がする。
「歴史と、その歴史を
どうやら嫌われてはいないらしい。
というか、逆に見も知らぬ自分のことを、噂だけで一方的に好んではくれているそうである。
「それで私は見た感じどうかね」
「もっと歴史書に出てくる、怪力無双とでもいうか……顔や体に傷がいくつもあって歴戦の勇士とでも思っていました。からだつきは筋肉がありますが、一人で何百人も倒せる項羽のようではありませんし、深慮遠謀に長ける張良・陳平のようでもありません……」
「では歴史書に載っている人物ではだれが一番近い感じがするんだ」
「韓信! 韓信が似合ってます!」
「韓信か……」
「はい。既成概念を壊す戦術の神、です!」
そういうと琴は昂った自分におどろいて、恥じらうかのように両手で顔を覆った。
韓信
その神算鬼謀ともいえる英雄的な戦術と、赤子のような人間関係の築き方の下手さで、最後は主君に恐れられ粛清された男。
琴はそのことまで言及しているわけではないだろう。
しかし、秀繁には一抹の不安を感じさせるものではある。
「すみません……祝言でこんな話をしてしまって……今までこういう話を殿方としたことがなくて……」
「北条家にはそういう話をできる人がいなかったのか?」
「女がそんなものを語りたがるんじゃない、と父からは言われてしまって……女性はみんなやはり源氏物語とかは読んでるんですけど、歴史書とかはあんまり読んでなくて……側室とはいえ、歴史のお話が一緒にできる方が旦那様になってくださって良かったです……」
「北条家もいろいろ大変なのだな」
「はい。いえ……でも北条家は、早雲公が立ててから100年の間に凝り固まっているのかもしれません……女性でも歴史を話せるような世の中だったらいいのですが……」
「そういう世が望みなら、私が天下をとったらそういう世にしてやろう」
「はい!」
「さて、ここらで余興を!」
そう言うと、ふたりの若者が刀を抜き、剣舞を始めた。
唄いながら舞い、舞いながら唄う。
刀を合わせ、外してはまた合わす。
羽根が風に吹かれて飛ぶように、または水が高きから低きに流れるように。
剣捌きは加速し、その名のとおり踊るようにして、だんだんと花婿である秀繁に近づいてきた。
「はっ!」
二人の剣の切っ先は、秀繁の首に向かれている。
だが、秀繁は動じていない。
「さすがですな。まったく動揺しておられない」
「それは私を斬る前に、おまえらがたたっ斬られることがわかっているからだ」
剣舞をした二人を『いつでも斬ることができる』と合図を待つように、障子の向こう側で兵が囲んでいる。
「
「これはこれは……」
ふたりは顔を見合わす。
『これは適わぬ』
『さすがに我らが見込んだものよ』
と感心している様子であった。
「それで、これが北条の挨拶というわけか」
「いや北条とは何の関係もござらん。我らの顔を覚えておいでではないか」
「ふむ、どこかで会ったかな」
「拙者は立花宗茂!」
「拙者は長宗我部信親!」
「「我らを、秀繁さまのお傍の末席に置いて頂きたく、まかり越した!」」
「……人様の祝言をぶち壊しておいてなんだ、その願いは……」
してやったりと、したり顔をするふたり。
今起きたことに、茫然とする琴。
それを眼前にして、やっと出てきた言葉がそれだった。
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