第15話鬼の子
天正十年六月二日。天命、今だ定かならずして巨星堕つ。
曰く、本能寺の変。
明智光秀が主君織田信長を弑逆した、戦国時代最大の謀反劇である。
信長は寝所である本能寺を攻撃しているのが光秀であることを知ると『是非に及ばず』と言って交戦し、火を放ち遺骸は残らなかったという。
『是非に及ばず』とは仕方がない、しょうがない、何が起こっているのかわからない、なんじゃこりゃ? などといろいろな解釈が今でも活発に論議されているが、『光秀が包囲しているなら逃げ出す隙はないだろう。いまさら謀反の理由を問うても無駄なことだ』ということだろう。
『人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり』と日ごろ歌っていた信長にとってみれば、織田幕府・織田王家を作り子孫ともども繁栄し家が続くということより『四十九歳で歴史に名を残し、壮絶に死ぬ』というのはむしろ本望であったかもしれない。
彼は死の間際からも死んだそのあとも、
第一報が羽柴陳内に届いたのは6月3日の深夜。
明智が毛利に放った使者が間違えて羽柴陳内に到着したというのはあやまりであろう。
使者は羽柴のものに捕らえられた。
「上様が亡くなった、じゃと!?」
秀吉は信じられぬという表情で天を見上げた。
「何かの間違いではないのか?毛利がはなった流言ではないのか?」
「いえ、間違いではございませぬ。上様、信長公は6月2日明智光秀によって打ち取られた模様」
「なんということじゃ。この秀吉が人がましい姿になれたのもすべては上様のおかげ。信長公が亡くなられたとあってはこれから先どうすればよい」
秀吉は天を仰いだ。
「あとを追うぞ。この秀吉、追い腹を切ってあの世で上様と再会するぞ」
秀吉は半狂乱している。
狂乱しているふりであった。
内心、
(上様も良いときに亡くなってくれた。この秀吉がさらに高みを目指すなら邪魔となる障害を勝手に明智が取り除いてくれた)と嬉々満悦としていた。
その割に、秀吉の頬を涙が零れる。
止まらないのはなぜであろう。
悲しいときと嬉しいときに人は涙を流す。
悲喜こもごもとはよく言ったものだ。
このときの秀吉は、まさに悲しい涙と、嬉しい涙を流していた。
「しっかりなさいませ!」
狂乱している秀吉を叱咤したのは、嫡男・秀繁であった。
「今こそ、父上が天下を取る好機が到来したのです。信長公の仇を討つものが、当然、次の天下人。その機会を父上は逃しまするか」
「おまえは何という……」
秀吉は絶句した。
せざるを得ない。
この嫡男は冷静で理性的であり過ぎる。
さらに自らの舅を討てという。
「おまえは何ということを申すのか。信長公の仇をとるとはまだしも、その仇はそなたの舅ではないか」
「舅といえども主君を討った謀反人。これを討たねば我が羽柴家は明智はおろか柴田、丹羽、滝川の後塵を拝すことになりましょう。この者たちに下げる必要のない頭を父上はお持ちですか」
「おまえは鬼の子か……」
秀吉は誰かが仇討ちを進言するのを待っていた。
しかし、それが
「私も若殿の意見に賛成です」
官兵衛が重々しく言った。
「ここで時間を無駄に過ごしていては、殿は織田家で三番目くらいの番頭で一生を終えるでしょう。しかし、ここで判断を誤らなければ、一気に天下を掌握することも可能です。可能性をむざむざと捨てることほど、愚かしいことはありません」
「そなたまで申すか」
秀吉の内心は我が意を得たり、というところである。
「あいわかった。いそぎ毛利と講和をし、出来次第、畿内へと戻り、明智と決戦を行う!」
おおっー! と周りのものたちが追随し、羽柴家の士気はあがる。
それはそうだろう。
この戦で勝てば、羽柴秀吉は次の天下人。
それに付随するものたちも、それ相応の待遇が跳ね上がるはずであった。
「官兵衛よ、毛利との講和はおまえに任せる。秀繁、そなたは畿内への道を整えておけ」
「承りました」
実をいうと秀繁はこのことをすでに見越していた。
大吾郎に言い含めて数日前から道々にかがり火を焚き、兵が走りながらも食事を摂れるように、にぎり飯やら、水の準備をさせてあったのだった。
俗にいう中国大返しは、秀繁の存在によってさらに円滑に進み、逆をいうと光秀にとっては不幸なことに天下人である期間がさらに縮まるのであった。
「よき進言でございましたな」
半右衛門が言った。
「官兵衛が言うと、カドが立って、後々までしこりを残すことになるというからな」
歴史的に、ここで明智討ちを進言するのは官兵衛であるが、そのことで秀吉に危険人物扱いされてしまい領国・権限両方小さくなり、豊臣家から心が離れ最後には関ヶ原で独立勢力を築こうとするのである。これで幾分か黒田家の命運も変化するであろう。
「ご立派でございました」
少しずつであるが、運命を変えようとする秀繁の姿が神子田半右衛門には嬉しい。
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