2話

 充(みちる)は昼からの仕事に備え、慎重に服を選び替えていた。小規模なイベントの設営となる今日の仕事は、いつもの忙しさとは異なり少し楽だ。それでも、白いシャツを着ていく勇気は充にはない。白シャツなんて着ていこうものなら、グリスでギトギトに汚れ、帰る頃には鼠色のシャツになってしまうのだ。



 そこで充は、首元が少しよれた、黒に近い紺のシャツを手に取った。これならば、汗やグリスの跡が目立たず、仕事中も気にせずに済むだろう。同じく用意したもう一着のシャツは、トートバッグの奥深くにしまっておく。7月上旬の夏日、帰りの電車でシャツがベッタリとくっつくのは避けねばいけない。



 充が準備を整え、最後に歯を磨き、時計を確認した。針は12時10分を指している。まだ1時間以上も余裕がある。同じく仕事があるはずの亜美佳は、テレビのワイドショーに夢中だった。



「そろそろ出るね」


「んー」



 亜美佳はテレビに夢中で、充が玄関を出るのを気に留めなかった。時折、亜美佳と一緒に仕事に行くことも悪くないと充は思うことがある。




 充がアパートの階段を下りると、中年の女性が掃除をしていた。



「充君、こんにちは。今からお仕事?」


「こんにちは。今日はこれから設営の仕事なんです」


「あら、それは大変ね」



 そんな仕事もあるのねと少し驚いた顔をした女性、荒川ひろ子は、ここの大家であった。荒川は、アパートの1階に住んでおり、朝やお昼頃になるとアパートの前を掃除してくれていた。時折、2階の共有通路も掃除してくれる心遣いには、充も感謝の念を抱いている。




 ある時こんなことがあった。


 充が仕事を終えた帰宅中、大きな両手に買い物袋を抱える荒川が目に入った。袋いっぱいに詰まった食材は、彼女が一人で持つには明らかに多すぎた。



「大家さん、お荷物持ちますよ」


「あら、あなたはえーと、202号室の岡崎さんかしら」



 荒川は、ゆったりとした口調で尋ねた。名前がすぐに出てこなかったのは、入居の挨拶以来まともに話したことがないからである。充は苦笑しながら「そうです」と答え、もう一度、荒川に手伝いますよと伝えた。



「ごめんなさいね。来週には大きな台風が来るっていうでしょ?だからね、つい買いすぎちゃったのよ」


「そうみたいですね。でも一人でこの量は大変ですよ」



 充は天気予報をあまり見ないため台風が来ているのか知らなかったが、彼女が言うのならばそうだろうと思った。荒川が左手に持っていた買い物袋を受け取った瞬間、充の予想を上回る重さに体が一瞬ぐらついた。



「大丈夫かしら、重たくない?」


「大丈夫ですよ。こう見えても力仕事を任されることが多いんですよ。イベントの、えーとお祭りの設営なんかやってるんです」



 充は、イベントと言っても伝わるか疑問に思ったのでお祭りに言い換えたが、それがただの思い上がりではないかとも後悔した。しかし、荒川はそんなことは気にせず、女の子とも例えられそうな充の細い体と腕を見て、心配していた。



 アパート前に到着すると、荒川は充から買い物袋を受け取り、浅く頭を下げた。



「ありがとうね。後で何か持ってきてあげるからね」


「そんなお礼なんて結構です。若い者は率先して手伝わなくては」


 とまで言って、これもまた充の思い上がりなのだろうか、つい先ほど後悔したばかりなのに芯の部分はなかなか変えられないものだと感じていた。荒川は、例のごとく気に留めはしなかったし、若者が率先して働くという志は立派であるとも思っていた。



 その日の夕暮れ、充は呼び鈴の音に誘われて扉を開けた。



「肉じゃがを作ったのよ。良かったらどうぞお食べになって」


「そんなお礼なんて」


「いいのよ。それに体も細いから、ちゃんと食べてないんじゃないかしらってね」



 充の体は生まれつき繊細で、食べても食べなくても、一定の細さを保ち続けていた。通常ならば、男性に対する「細い」という言葉には怒りが湧いてくることがあるだろう。しかし、充が特別な感情を抱くことはなかった。人から見れば事実なのだろう。充が体の細さで小学生の頃にからかいの対象となったこともあるが、21年という歳月で克服してしまっていた。



「ありがとうございます。容器はどうしましょうか」


「タッパはね、洗わなくても良いから、時間がある時にでも持ってきてくれればいいのよ」


そう言って、荒川は柔らかな表情を浮かべ、微笑みながらその場を離れた。



 カツンカツンと聞こえる階段の音が遠ざかると、荒川が手渡してくれた肉じゃがの容器を手に、充はリビングへと戻った。



「亜美佳、肉じゃがをもらったんだけど食べる?」


「んー、すきじゃない」



 亜美佳は無関心なまま、手に持った携帯電話を操作しながら答えた。充はキッチンに戻り、小さな戸棚からお椀を2つ取り出す。もちろん箸も2膳用意した。



「どうぞ。1階の大家さんがお礼にくれたんだよ。帰りに大家さんが大きな買い物袋を持ってたから、手伝ってあげてさ。そのお礼って」


「へー」


「亜美佳も見たことあるでしょ?1階でよく掃除してる人。優しそうで気の良さそうな人だったよ」


「ほれた?」


 亜美佳は口元を下げ、ニヤニヤしながら言った。


「なんでそうなるんだよ」



 亜美佳は箸を手に取り、肉と玉ねぎを小さな口で一緒に頬張った。


「おばさんの味がする」


「なにそれ。家庭的な味にしときなよ」


 亜美佳の失礼でありながら素朴な感想に、充は微笑んで自分もと食べた。荒川らしい、柔らかく優しい味だと感じた。



 この出来事がきっかけで、荒川は充に会うとに話しかけるようになった。話すと言っても天気が良いですねや、お仕事はどうなどの世間話程度だ。時折、充の体調を気遣っておすそ分けもしてくれた。小さな世界ではあるが、新しいコミュニケーションが生まれたことに充は喜びを感じていた。





「充君、そう言えばね」


荒川が、申し訳なさそうな表情を浮かべながら言い出した。



「また苦情、というより相談がきちゃってね。帰ってくる時はもう少し静かにして欲しいって言われちゃったのよ。うちのアパートはね、ほら作りが古いでしょ?そのせいで音がよく響いちゃうのよ」



「どちらの部屋の方ですか?」



「いやね、そんなに腹をたててるわけじゃないのよ。多分、不思議に思って私に相談してくれるだけなの」


荒川は、自分の言ったことを自分で抑えるような優しい口調で続けた。



「それにね、今朝も5時くらいに大きな声で歌いながら帰ってきてたでしょ?そういう仕事であるってことは、みんな理解しているのだけどね」



 荒川は人に優しく接することは得意だったが、叱ることや注意することはどうも苦手だった。本当はハッキリとした苦情のはずなのだが、なぜか充の前ではどうしても言葉が柔らかくなってしまうのだ。荒川には何年も会っていない孫息子がおり、充と孫息子が重なって見えてしまう。注意をしない事が優しさではないことも重々承知の上で、このような伝え方になってしまっていた。



「伝えておきます。ただ、今朝はとても嬉しいことがあったみたいなんです」 そう言って、充は軽く頭を下げてアパートを後にした。



 荒川は誰のことであるは述べなかったが、このアパートで該当するような人物は亜美佳しか存在しない。また、普段は礼儀正しい充が、亜美佳のこととなると途端にまるで人事かのように冷たくなることも荒川は知っていた。



 荒川は、充君は本当にいい子なのにね感じながら、彼の背中を見守っていた。そして、亜美佳という存在が、充の未知の同棲者であると同時に、自身にとっては稀な悩みの種となっていた。

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