想像に沈む
春日希為
想像に沈む
十年ほど前のことだ。私はどこにでもある集合団地で生まれた。産声を上げるよりも前に両親は飛び立っていき、二度とその顔を拝むことは出来なかった。最も、それは私に限っての話ではない。みんなそんなものだ。だから、私は両親の顔を知らない。私のすぐ隣に生まれた唯一の同族も同じく両親の顔を知らずに生きていた。
この隣人とはもう何年もの付き合いになる。私がここで生まれてから数日後にひっそりとやってきて、それ以降付かず離れず良い塩梅での付き合いが続いている。
私たちが住んでいる集合団地のすぐ外には木が沢山植えられているらしい。曰く、登りやすそうな幹の太い木。揺れるたびにザワザワと大袈裟すぎる主張の強い声が聞こえ、体の大きな木が作り出す影は誰よりも安心感に満ち溢れていた。幹に体を預け、木陰で思い思いのことをする優雅な幸福な時間はそれはそれは心地よいものだろう。このじめったい場所に比べればそれはとても羨ましい限りだ。
「もう三年かあ」
友人は一年ぶりに口を開いたかと思えば、これだけ言ってまた何も言わなくなった。私に話しかけていたわけではなかったらしい。
「まだ三年だ」
口にした後に返事が返ってこないことでようやくそのことに気が付いた。この無口すぎる隣人であり友人。こいつのことは嫌いではないが、あと七年も一緒に過ごすのだからもっと会話をしてくれてもいいのではないかと思う。事実、一年目に耐えられなくなった私はそのことを彼に言った。だがまあ案の定というか想定通りというか返事は返ってこなかったし、奴は触覚一つ動かさない。つまらない男だ。どうせ、理想の女に出会わずにそのへんでひっくり返ってくたばるんだろうな。残念なことだ。
私たちが住んでいてる団地の下の土は肥えていて、栄養も豊富にある。それでいて、沢山の生き物が鮨詰めになっているわけでもない。だから毎日腹を十分に満たすだけの食事はあった。ミミズやモグラ。カブトムシなどのご近所さんとも食料のことでは争いを起こしたことは一度もない。私たちの食事は木の根から漏れる水のようなもので、それを吸って腹を満たしていた。この木は集合団地のどこにでも生えているそうだ。これはモグラから聞いた。モグラはこの土の事はもちろん、地上のこともよく知っていて、私がここを集合団地に住んでいることを知ったのもこのモグラが教えてくれたからだ。
「ここに生き物が集まらない理由は一つしかない。この集合団地のあちらこちらに同じような木が植えられていて、みんないい感じにバラけているんだ。僕は今日、集合団地がない木の下に行ったよ」
「誰かいたか?」
「ああいたとも。君と同じような顔の奴らがわんさかいた。この辺り二匹しかいないのは珍しいって思ったね。集まっている姿がハチみたいだったよ」
モグラはあちこちを歩きまわっているから博識で私が知らない生き物も沢山知っていたし、顔見知りというやつも多かった。お喋りで外の世界を教えてくれるやつは貴重だ。だから、私はモグラと話すときはいつもより頭を動かして必死に彼の言う世界を想像した。
モグラにハチとはどういう存在かと聞くと、お尻の方に針を持っていて、それを必要な時は刺してくるらしい。そのハチの小さい時は私たちと同じように丸く太っていて、巣に一塊になっているらしい。ハチの姿をモグラはよく研がれた長い爪で柔らかい地面にガタガタの線を引いていった。ぼんやりとした歪なハチの絵を見て、恐怖心が掻き立てられる。こんな凶悪なものが外を飛んでいるなんて。
「そういやさ、君っていつになったら外に出るの?」
モグラは爪で自分がさっき書いたハチの絵を引っ掻いて消した。
「あと七年ほどだ」
「そう、なら気をつけたほうがいいよ」
「なにを」
「もうすぐここは海に沈むって」
海。その懐かしい響きに頭を回しているとモグラはいつの間にか目の前からいなくなっていた。どうせ食べごろのミミズを見つけたんだろう。
ぐう。と音がなる。腹が減った。私は腹を空かしていたことを思い出した。いつもの木の根に向かって足を動かした。モグラと何か大事なことを話していたような気がする。だがもう思い出すこともなかった。
目当ての根に辿りついた。この辺りで一番美味いお気に入りの場所だ。この辺に住んでいる奴らは大体ここに食べにくる。私は太く甘い匂いを発する根っこに齧りつきタラタラと流れ出る汁を吸い上げた。蜂蜜のようなどろりとした感触が口の中を満たす。ジュッ、ジュッと大きな音を立てていると友人もモソモソと動き出してきてた。そして、初めから居ましたという態度で隣に座ると、チュウチュウと静かに生まれたてみたいな下手くそな口使いで吸った。食事までも静かな男だ。友人は私よりも後に来るくせに私よりも先に元いた場所に帰っていく。
私はそんなつまらないやつが知らない間にいなくなったことなんてどうでもいい。今は己の空腹感を落ち着かせることだけが頭の中を支配していた。
「今日はどんな感じです?」
木の根の真下に住んでいるカブトムシが短い触覚を一生懸命こちらに向けて話しかけてきた。成長期らしく昨日よりもまた一回り丸く太っていた。体のラインが少しキツそうで、今にもはち切れそうだ。
最近、食事後の私はこのカブトムシと話すことが習慣になっている。お互いに背格好が似ているし、成長過程も似ている。目がよく見えないミミズたちに頻繁に間違えられるくらい私たちは似ていた。違うのはこいつは一つ年下で、私よりも先に外に出るということ。最近は早く外に出たい。立派な奥さんを見つけるんだと意気込んでいて、将来の夢は立派なツノを持つことらしい。初めから終わりまで壮大な男だ。世の中の死亡率がいくらあるのか知らないんだろうか。それもそのはずで、カブトムシは来年、サナギになり一足先に外の明るい空の下に飛び立っていくらしい。そして、私たちは二度と会うことはない。
「今日はまあ昨日より美味かった」
土で口の周りのベトベトを拭うが土が湿気を帯びていてあまり綺麗になったようには感じなかった。
「昨日雨が降ったからですかね」
「だろうね」
そこで会話が終了する。習慣にしていると言ってもこいつが話しかけてくるから返しているだけで、面白い何かがあるわけじゃない。この男といえば一に食事、二にツノ、三に空の広さの話だ。この暗い地の底ではみんなそんなものだが、誰も彼も同じ話題しかしないために私はあとこれを何年も続けるのだと考えるとうんざりした。といってもそのほかに話題があるわけではない。そう考えるとそれ以外の話をしてくれるのはモグラだけで彼は貴重な存在だった。だが、そのモグラの話を聞きたがる連中はここにはやはりいなかった。
『みんな同じことしか聞かないよね』
時たまモグラはそんな風な事を口にした。つまらなそうに爪の先を砂利で磨ぎながら、
『空は青いか、広いか。そんなの当たり前じゃないか。海が青くて広いなら空もそうに決まってるのに。僕たちは知ってるはずだよ。だってみんな海から生まれたんだから』
私はそんなことは知らないし、海とはなんだとモグラに聞くと、彼も「分からない。でも知ってるんだ」と磨ぎ終わって輝く爪を見ながらケロッと笑った。
その後も私たちの会話は特別盛り上がるわけでもなく、そこそこのところで終了した。私はカブトムシに「元気でやれよ。太るとモテないぞ」と助言したが聞く耳を持たず「最近は太ってる方がモテるんですよ」と返して丸い胴体を引き摺りながら自分の家に帰って行った。
私はまた来た道を戻り始めた。途中でミミズに会ったが、あいつらは喋らない。喋るための口がないからだ。どうしても会話の必要がある時はいつもジェスチャーでどうにかしている。最もそれすら伝わっているのか分からないが。いつも通り首だけを曲げて会釈だけしておいた。ミミズの方も長い首を曲げて軽く会釈を返して通り過ぎっていった。昨日より数が減っているように感じたのはおそらく正解だろう。雨が降っていたし、なによりさっき会ったモグラの跡が彼らの後ろに見えたからだ。
夏、上がり続ける地中最高気温にじっと耐えて、次の夏を待っていた。私はそうやって誰かと会話をして送り出し、迎え入れた。例のカブトムシの後輩は数年後、腹の膨らんだ奥さんを連れてまた戻ってきた。
「二度と会わないかと思った」
「惚気話をちょっとね。彼女、僕の腹を見て惚れたそうですよ」
「ツノじゃないのか」
「まあ、伸びなくて」
短い手でも触れるくらいには彼のツノは短かった。これでよく奥さんを引っ掛けたものだ。それこそ軌跡だろう。
「今の夢は大家族を作る事です」
側で丸くなって眠る娘にキスをして、愛おしそうに撫でた。
「ここもうるさくなりそうだな」
「その事なんですけどね、子供達が大きくなったら引っ越そうかと思ってるんですよ」
「なぜ」
「もうすぐ、ここは沈むそうです。モグラに聞きました。先輩も早くした方がいいですよ」
私はそれを聞いて駆け出した。どこにいるかも分からないモグラの元へと話を聞きに足を動かした。
今日中には絶対に見つからないと思っていたがモグラはあっさりと見つかった。ミミズを啜りながら地上にあがろうとしていたのだ。それを私は呼び止めた。
「ああ、あなたでしたか。カブトムシくんから聞きましたか?」
「そのことだ。沈むってどういうことなんだ。私は死ぬのか」
「あなたの集合団地が今どうなっているかご存知ですか?」
知らないと頭を振った。モグラは最後のミミズをチュルチュルと吸って飲み込むとこちらに来て、いつもしていたみたいに絵を描いてくれた。長方形を横に三つ、そしてその前に木を三本並べたものが柔らかい地面に描かれた。
「昔、ハチの話をしたことを覚えていますか」
モグラは爪の先についた土を払いながら尋ねるが、私はハチというものがなんだったのか全く思い出せず首を振った。
「あの話をした時、この上はこうなっていたんです。この三本の木をハチたちは家にしていました」
「でもね……」そう言って今し方描いたばかりの長方形と木を手のひらで払った。絵は消えて、歪んだ線が何本か残るだけになった。
「今はこうなってます」
なにも無くなった地面だけを指した。私は遅れてその恐ろしい事実に気がついた。
「私たちはどうなるんだ」
モグラは首を振った。分からないということだ。このあたりで一番地上に詳しい彼が分からないというのならそれはもう誰にも理解できないということになる。私はこの事を隣に住む友人に伝えなくてはと思った。
「いつ上へ上がる予定だったんですか?」
「もう一夏の予定だった」
「なら待っていたほうが良いでしょう。未熟なまま上へ出たりするよりかは耐えて飛んで逃げたほうが確率は高そうです。あなたのお友達にもそう言っておきなさい。」
モグラとはそれを最後にもう二度と会うことはなかった。彼がいなくなったからだろうかその年はミミズが大量発生していてこのあたりを少しだけ荒らしまわって大変だった。カブトムシ一家は子供が成長して動けなくなる前に引っ越して行った。最後に見た子供たちは彼にそっくりなくらい太っていたが元気に育っていた。
モグラの助言通り私はその場に留まることにした。十年目の夏、身体中がムズムズとして、ようやくその時が来た。私は短い体を必死に揺らし、足をせっせと動かして地を蹴った。十年来の友人に「一足お先に。地上で会おうぜ」とキザな挨拶をして暫しの別れを告げた。久しぶりに彼も話してくれた。これが私たちが会う最後の時だと知っていえるからだろう。「すぐに追いつくから」と言ってまだその段階が来ていない中途半端な体を左右に不器用に揺らした。
十年毎日通っていた道をどんどん背後に置き去りにしていく。自宅、カブトムシの夢を聞いた木の根元、ミミズの溜まり場。モグラと立ち話をした場所。たったそれだけの狭い行動範囲に私の十年が詰まっていた。上手くいけばこれから、その何十倍もの世界を私は見る。私の夢は誰にも言っていなかったが、八日目を生きた蝉になることだ。カブトムシの夢を馬鹿にできないくらいに私も馬鹿で夢想家なのかもしれない。
上へと登るたびに土の色が薄くなってくる。人生で一番初めにみた色。生まれた時に一度だけ通った道だった。そのたった一度の経験がもうすぐ着くぞと言っている。地上に出る。体のムズムズはだんだん酷くなってきて、それに呼応するように私の足も早くなった。
早く、早く、早く! 私はそこへ行きたい!
「なんだ?」
あと一歩というところで固い地面に激突した。私は頭を抑えて、指先でカリカリと削れない地面を掘った。
地面は鋭い指先でも削れなかった。地中深くの固い地面も問題なく掻き分けてきた自慢の指だ。こんな地上近くの柔い地面なんて……。私は何度も何度も土を掻いた。だが、溜め込んだ知恵と力でどんなにやっても無駄だった。私は遠回りだが仕方なく、進路を変えて、少し戻ってまた違う地面の方へと向かった。しかし、そこでもあと一歩というところで固い岩盤みたいな場所にぶち当たってしまう。
焦りに思考が支配されいくのを感じた。体がどんどん外に順応してきている。このままでは溺れてしまう。一刻も早く外に出て新鮮な空気を吸わなくてはいけない。
その時だ。カリカリという無常さが響く中で私は確かにその時ザブン、ザブンという音を聞いた。細胞の奥深くに眠る何かが初めて聞くその音を懐かしいと感じた。私たちはこの音の正体を確かに知っていた。
『だってみんな海から生まれたんだから』
誰かの言葉を思い出した。
これは波の音だ。そこにあるのは海だと私は知らぬ間に理解していた。
ピー。という警笛が鳴った。ザブザブと波音が聞こえる。外の様子がどうなっているか全く分からないが、海があるのだということだけは分かった。絶望的な状況には変わりない。だが、全く分からないよりはマシになったと言える。
波の隙間を縫って声が聞こえた。
「あと百メートル!」
「先生、寒ーい」
「おい、競争しようぜ。負けた方奢りなー」
「お前日焼けめっちゃしてんじゃん」
「蝉うるせー」
何年もずっと聞いていた子供の声だった。毎日、地中で聞いていた声と変わらないものだ。私にはそれが波の音と固い地面とどういう意味との関係性があるのかは分からないままだった。
『お前かわいいな。俺の子供を産んでくれよ』
という声が壁一枚隔てた向こう側から確かに聞こえる。私よりも先にこの暗い地から脱出したもの達の声だ。人生の先輩であり、ライバルである。上手くけば今頃は私もそこへ着いているはずだった。友人は外へと出られただろうか。いつも私よりも後に来る彼は人生で一番大事な時に私を追い越して向こうへと行ってしまったんだろうか。あのカブトムシは無事に引っ越せただろうか。それとも子供の世話でノイローゼになっているのだろうか。
波音は気がつけば幾分かマシになっていた。ザブザブという音からチャプチャプと軽い何かがぶつかり合う音に変わっていた。そうこうしているうちに尻の方から感覚がなくなってゆくのを感じた。
十年この時を待ち続けていた。もし次に外の世界を見るとすると更にもう十年必要になる。その途方もない時間の中でもまだ世界は変わらずに青いだろうか。それとも誰かの言った通りに沈んでしまっているのだろうか。私のこの羽も持たない体はどこに消えていってしまうのか。答えは一つだ。海に。太古の昔、全てのものが生まれた海に帰るのだろう。波の音はまだ続いている。私はその全てを包み込む優しさの中に、寛大さに触れて溶けていくかのようなふんわりとした感覚に足を丸め、目を閉じた。静けさの中、懐かしい響きに全てを預け、私は独り想像の海に抱かれ息絶えた。
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