第36話 帝国の危機・御幸

 7月10日 カイの元王城


 ルビコン伯爵家討伐の後始末はロースター鎮正将軍に任せたショウ達は、一足先にカイへと到着したのであった。


 ひとつの国を占領すれば、どんなやり方であったとしても膨大な書類仕事が発生する。


 新しく決めるべきことは、次から次へと出て来るものだ。


 天才ベイクをして捌ききれないほどの陳情・相談事の山が執務机に二つ、三つとできあがってしまっていた。


 どれほどの能力を待っていようが、決裁待ちの書類は増えることはあっても、減ることはめったにない。


 そんな状態であるから、入り口が開いたことに気付いても顔を上げなかったベイクだ。


「入るわ」


 それがアテナの声だと分かった瞬間、ベイクは正しく反応した。


「人払いをいたします?」


 瞬時に、立ち上がっている。


「もう、してある」


 皇室の影が結界を張ったのだろうと理解した。

 

 アテナが一人でベイクの所に来た。しかも「皇帝の影」を使った人払いをしたと言うこと。


『ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい』


 何食わぬ顔をしつつも、ベイクは胃がギュッと締め付けられた気がした。


『サスティナブル帝国の危機だぞ』


 破滅的なほどに大きなピンチは、静かに、そして突然やってくるものであることをを、よく知っているベイクだ。


 しかも「アテナが一人で相談に来た」のであるから、話題は決まっている。


 それは最大で、大至急の用件であることは聞かなくてもわかる。


 話し合うには儀礼よりも中身が大事。


 即座に相談用のソファに飛び移るようにして座る。


 アテナがフワッと対面に座るやいなや、急き込んで問うた。


「ご状態は?」 

「悪くなる…… と思う」 


 ゴクリとつばを飲む。


「ご病気で?」


 このところ食事を召し上がらないことが多くなっているという報告は上がっている。お疲れ気味だとは思っていた。


「わからないわ。ともかく、あと2、3日が限界よ」

「限界?」

「今は、一度部屋を出たら、みんなに見せないように頑張ってみせているのよ。でも、かなり無理しているんだわ。なるべくなら、これ以上は気を張らなくても良いようにしてあげたいの」

「わかりました。全ての公務を打ち切る用意をします」

「お願いね。私は私でできることはしてあるけど、また時間がかかるわ。」


 アテナが心配しているのは「きうつ」と呼ばれる病気だった。

 

 頑張りすぎたリーダー達が発症する病である。身体的に熱や咳などが起きるわけではないのだが、気力がなくなるのである。時には、眠ったようになってから、二度と目覚めないことすらある。


 たいていは、ベッドに入ったままとなり、食事も「言われないと食べない」となるのも珍しくない。あらゆることに無気力、無関心、そして時に「動けない自分に対する罪悪感」で一杯になってしまう。


 サスティナブル帝国の貴族家当主クラスでは珍しくない病気だ。


 ただちに、ベイクは動いた。


 皇都の主立つ者へ手紙を書いたのだ。同時に内密に静養先を探した。秘密が守りやすく、同時に、心を休めるにふさわしい場所を探した。


 ロマオ領の北部にあるロースターの別宅が用意された。


 周辺警備は迦楼羅隊とライオン隊が任され、邸宅内の警備をピーコックが担当することとした。


 女騎士達も全員が邸宅に配置され、メイドのまねごとをすることになったのは機密保持のためである。


 手は足りないが、やむを得ない。


 さすがに、ロースターに人を借りないのは信頼云々以前の話だからだ。占領軍が最大の弱みを見せるわけにはいかない。


 とはいえ、ロースター本人には「皇帝がご静養する」こと自体は伝えた。


 シャオを看病役にとの申し出があったが「侯爵家の姫」を一人で派遣するわけに行かない以上、丁重にお断りするしかなかったのである。


 だから、当然「シャオには内密」と言うこともロースターとベイクで取り決めたこと。


 機密保持のため、できることは片端から行いつつ、降伏してきた貴族家との折衝や、政治判断は避けられない。


 そのため、後で叱られる事を覚悟の上で、決裁権を僭越することもしばしばだったが、このあたりで開き直れるのがベイクたるところなのである。


 占領軍としての「決められた仕事」も「やるべき仕事」も、ある程度までならベイクはできる。


 しかし、やはりできない事も多いのが現実だった。


 できない事をついつい愚痴りたくなる自分を我慢して、ベイクは働くのである。


 ショウが静養するロースターの別宅は、ヤマユリが咲き乱れ、敷地に温泉まで引き込んでいる、使い勝手の良い山荘であった。


 この邸に着いてからは、まるで安心した赤子のようになってしまった。


 ベッドで、一日中うつらうつらしている。


 頃合いを見て、無理やり食べさせないと、本当に一日中食べないままでいることになってしまう。


 動く気力がない代わりに、アテナが「お願いする」と逆らうこともないため、辛うじて、温泉と水分補給をセットで受け入れている状態だった。


 とにかくアテナは密着して世話を焼いていた。昼間はカイに頼んで睡眠を取るようにしたのは、これが長期戦になると分かってのことである。


 しかし、ベッタリと世話を焼くアテナを周囲が心配しだしたのが2週間も過ぎた7月の終わり頃だった。

 

 そして、7月31日。


 ただならぬ気配を漂わせた重武装の騎士団に護衛された馬車が到着したのであった。


 もしも、サスティナブルのことに詳しい者が見れば、この騎士団が御三家の者達であることは推察できるはずだった。


 事実、周辺警備していた迦楼羅隊からも、はるか以前から報告が入っていたのだから。


 ゆえに、山荘にいた人々は、誰一人慌てることなく馬車を迎えたのである。


 到着した馬車を先頭で迎えたのはアテナだ。


「ありがとう。こんなに早く」

 

 馬車から降りて来た女性は「手紙、ありがとう。お待たせしたわ、ゴメン」と抱き合いながら詫びてみせる。


 降り立ったのは、第一夫人であるメリッサであった。


 後のサスティナブル帝国の公式発表によれば、新領地に「御幸ごこう※」が行われたのは9月と言うことになっていた。


 貴族達を集めた夜会に備えての日程という説明がなされたわけだ。


 しかしながら、実はアテナがファントムを使って「帝国の危機ゆえに、最速で届けよ」と命じた手紙を出したのはのことである。


 そこから、なんと一週間でメリッサに届いた。


 恐るべきは、メリッサの決断は手紙を読んだ瞬間に自分の行動を決めたことである。


「ショウ様の元に行きます。全てのことに優先します!」


 妻妃連合は、直ちに機能した。


 出発したのは手紙を受け取った翌日であるのだから、その凄まじい決断力と、計画能力がわかろうというもの。


 メリッサは、自己の持てる権限と能力をフルに発揮することを一切ためらわなかった。


 護衛として御三家の騎士団を「徴発」することも、全くためらわなかった(騎士団側では、メリッサ様からの依頼ということで、行き先も期間もわからない護衛依頼に希望者が殺到して、選出に苦労することになったのは別の話である)


 メリッサを送り出すために、妻妃全員が手分けして役割分担したのだ。都に残る「夫人」は、ミネルヴァになることは必然である。


 もちろん、はるばる、やってきたのは第一夫人だけではなかった。


 馬車から、ちゃんと順番を守って降りてきたメロディーも「アテナちゃんの真心に感謝を」と抱擁が続いた。


 それを見守りつつ「それでは、私は先に」と、メイド達を引き連れて、さっそく「戦場」に向かったのはミィルであった。


 2千数百キロの道のりを、20日少々で到着するという偉業を成し遂げられたのは、女性達の驚異的な我慢強さと、現実問題としての「道路整備」のお陰であったのだった。


 それであっても、メリッサたちは、ショウに会う前に「お風呂を」と所望せねばならぬほどであったのだった。


 不思議なことに、夢とうつつの間を行き来しつつ、メリッサやメロディーに世話をされ、ミィルが横に着いているのを当たり前のように受け止めていた。


 いやむしろ、メリッサたちが横にいることに驚いたのは、8月の真ん中になってからのことだったという。


 ともかく、皇帝の時ならぬ「きうつ」は一月ほどかけて、ようやく上向いたのであった。


※御幸:皇帝や皇后など皇族、王族の主なものが出かけること。なお同じ文字を皇帝の外出には「みゆき」「ぎょこう」と発音し、皇后が出かける時は「ごこう」と呼び分けている時代があったようです。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

作者より

メリッサたちが横にいたので、自分が夢を見ているように思っていたらしいです。 なお、今回扱った心の病は、あくまでも物語世界での病です。ショウ君の前世の「抑うつ状態」に似ている感じですが、あくまでも、似て異なる病ですので、ご了承ください。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


  

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