断続の白いウィステリア―fragment of lost memory―

花野井あす

record_001 prologue


「どうか、忘れないで」


 白黒モノクロの世界の中で、誰かが何かを差し出してそう言った。その誰かの顔も差し出された何かも、すべてが不明瞭ぼんやりとして定かではない。

 ――それは遠い、遠い昔に交わした約束の言葉。思い出されることもない、過去のひととき。色も形も失ったまま、心の奥底にうずめられた記憶の欠片。決して思い起こされるはずのない、破損した情報データの残骸。

  

 けれども。

  

 この哀しく美しい光景を、感情を、思い出を。その断片でもいいから、君に託したいと思ったんだ。他の誰でもない、君だから。だからどうか。

 



 

「サーティス」

 

 己の愛称を呼ぶ男の声でEZイーゼッド136サーティシックスは足を止めた。

 EZ136は透明な防壁に囲まれた無機質なブルー・ライトに照らされた白い一室にいた。眼下には拘束椅子の上で項垂れた市民エージェントがひとり。顎の辺りで白髪を切り揃えた女型フィメールタイプだ。

 彼女は頸には虚ろに空いた一つ口のプラグ穴が薄ぼんやりと闇を覗かせている。その横に彫り込まれている市民IDは焼き入れてすべては解読できない。「Z」の文字と「r000」の文字だけがうっすらと輪郭かたちを残している。

 最早、その市民エージェントは声を鳴らすことはない。閉じられた目蓋を開けて白銀の眼を見せることもないし、拘束椅子のアームレストから垂らされた白い腕を震わせることもない。

 EZ136がぼんやりと無自我の廃棄品ジャンクへと変容した市民エージェントを見詰めていると、またあの男の声が狭い室の中で響かれる。

 

「サーティス」

 

 それは深く、穏やかな音。EZ136は緩慢ゆるゆるかおを上げて、誰もいない室を見る。あるのは己と廃棄品ジャンクと物々しい電子機器だけ。監視室に繋げられているカメラはその横に備え付けた小さな赤いランプをチカチカさせて、時おり駆動音の鳴らしながら角度を変化えている。

 壁際に備えられている箱型の通信操作装置ユニットは無数に並ぶスナップスイッチは一部だけをオンに倒して、電子パネルに「防壁稼働中」の文字を表示している。その下には丸型コネクタの付された数本の赤や黒、白のがケーブルが投げ出され、現在いまは何にも繋がれていない。

 

 男の声は、静かに柔らかな口調でことばを継ぐ。

「サーティス、君は矢張り


 EZ136の胸元でペンダントが光る。小さな白銀のキューブを錆びれた鎖で下げたペンダントだ。鈍色の縁取りがされ、その側面にはふたつのUSBポートが空けられている。――男の声はキューブの中に備えられた拡声器スピーカーから鳴らされていた。鳴らされる都度、USBポートのそばにあるランプが光を灯して通信を知らせ、その横に設けられた小さな電子パネルには「NOAH」と表示されている。

 キューブがざざ、ざざ、と時おり雑音ノイズを混ぜて男の言葉の一部を遮断とざし、EZ136の耳に届く前に掻き消していしまう。それでも、男は何かを伝えようと、EZ136に言葉を投げかけ続けている。

 EZ136は透明な防壁に反射した己の姿を見た。きっと市民エージェントに血が通っていれば、このような色をしていたに違いない。胸元の左右に垂らされた長いおさげは、鮮やかな赤。後頭部から目元を覆うシルバーのヘッドセット型支援装置ユニットの奥から覗く切れ上がった鋭い白銀のまなこはどんよりと曇り、眼の下には大きな隈が浮かび上がっている。

 赤いボディ・スーツを纏う身體ボディ女型フィメールタイプ。襟元には剣と盾を模した銅色の襟章が彼女が保安局セキュリティの局員であることを示し――手元で鈍く煌めく回転式リボルバー銃型の装置ユニットが彼女の役職が「執行官エクスキューショナー」であることを物語っている。

 見慣れた己の姿を不明瞭ぼんやりと見詰め、ようやくEZ136は掠れた声を落とした。

 

「もう、やめたい」

 

 もう、終わりにしたい。半永久に続くこの地獄から逃げ出したい。開放されたい。いっそ己が狂ってしまえば、抜け出せるのだろうか。この刑執行装置ユニットで己の挿し込みプラグを穿てば、すべてを

 ざざ、ざざ。

 胸元のキューブが雑音ノイズを鳴らす。その中に硝子の割れる破砕音爆発音、そして劈くような悲鳴が織り交ぜられている。絶え間なく鳴らされる銃声の中で、男は荒い呼吸音を鳴らしながら言葉を落とす。

「ねえ、サーティス」

 EZ136は応じない。眉一つ動かさず、まるで聞こえていないような様子だ。否。若しかすれば、まことにその声は届いていないのかもしれない。ただただ、不明瞭ぼんやりと焦点の所在も定かでない視線を防壁へ向けている。

 彼女は最早、哀哭も叶わぬほどに疲弊つかれ果てているのだ。涙も乾き、心もから。すべてが色褪せて、無音で無味無臭。支援装置ユニットがけたたましく着信音を鳴らしても、キューブから建築物を破砕するような爆発音が轟いても、ぴくりとも

 男は、激しく咳き込んだ。小さく呻いてはひゅうひゅうと異音を鳴らす。また銃声が轟き、同時にキューブがキインと共鳴音を響かせる。ごぼり、と何かを吐き出したような音を鳴らして、男は掠れた声でことばを途切れ途切れに落としてゆく。

「センソウは……、まだまだ、続きそうだよ」

 幾人ものの男女おとこおんなたちの絶叫がキューブをまた共鳴させる。キューブの雑音ノイズは一層濃くなり、男の声はだんだんに遠くなる。

「僕もいつかは…………かもしれない」

 故に、その一部は雑音ノイズにより遮蔽ざされている。男はそれでも、ことばを継ぐ。一心に、ただひたすらに、EZ136へ声を掛ける。

「でもね、だからね」

 矢庭に、EZ136の視界からすべての情報が掻き消された。何も無い、何処までも白い空間。その中にぽつんとひとり、立っていた。

 ざざ、ざざ……

 雑音ノイズで視界が大きく揺らた。あまりの揺らぎに、EZ136は初めて目を細め、伏せた。足元がうねるように揺れ、雑音ノイズで視界は白と黒に明滅する。

 ざざ、ざざ……

 ふと、気がつけば正面に誰かが立っている。顔は黒く塗りつぶされて、判別からない。何となく、黒い服を着ているように思われるが、それも定かでない。両手で何かを握っているが、無論それも雑音ノイズ輪郭かたち理解わからない。

 その誰かは除々ゆっくりとEZ136へ歩行あるき寄る。一歩一歩、静かに、そして確かに。その誰かは黒塗りの顔に淋しげな笑みを浮かべた。

 

 突如、視界が黒く塗り潰された。

 

 すべての感覚が失われ、EZ136は深い、深い深淵の奥底へと落ちてゆく。彼女には落ちているのかすらかいせない。静かに、静かにその身を何処か遠方の先と投じているのだ。

 胸元のペンダントの鎖が切断れ、キューブが宙に放られる。チカチカ、チカチカとランプが点滅しその奥から静かにことばが落とされた。


「どうか、忘れないで」


 EZ136の意識はそこでふつり、とシャット・アウトされた。

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