第19話 魔女は空から降ってくる

 また沈黙の時間が始まった。スマホを片耳に当てたまま、一階の人混みを眺め続ける。あまり一点ばかり見ないようにして、全体の流れを、大まかに把握するように努めた。


 さらに三〇分が経った。


 一箇所、人の流れに違和感があった。そちらのほうを凝視する。黒いキャップをかぶった男が、他の人々の動きに合わせつつも、不自然なテンポとスピードで歩いている。顔はキャップのせいでよく見えない。けど、背の高さと佇まいは、瞬一郎そっくりだ。


 どうする? と迷う。人違いだったら大変だ。


 エリカさんに伝えるべきかどうか、ためらっていると、黒いキャップの男は、前方を歩く女性のバッグに、素早く手を突っこみ、何かを引き抜いて自分のポケットに入れた。


 当たりだ。


「エリカさん、いました! 瞬一郎っぽい男が現れました! 何か盗んだところです!」


『どこ!?』


「レストラン街の入り口近く! 黒いキャップをかぶってます!」


『見えた! 間違いない、私にはわかる! あいつよ!』


 だけど、接近しようにも、一階フロアは人がいっぱいで、押しのけて通らないといけない。無理に近付こうとすれば、相手に察知される恐れもある。私の面は割れてるから、気がつかれたら、逃げられてしまうかもしれない。


 そうしている間にも、瞬一郎の姿を見失いそうになる。仕方なく、無理やり人混みをかき分けて、前に進もうとした。


「いったぁい!」


 うっかり、サンダル履きのお姉さんの足を踏んづけてしまった。


「ああ、ごめんなさい!」


「ちょっとぉ! 周りをよく見てよね! すごい痛かったじゃない!」


 軽く謝っただけでは、すぐには解放してもらえなかった。お姉さんはブランド物の紙袋を足元に置くと、腕組みして、私を睨んできた。


「謝りなさいよ!」


 いや、さっき、謝ったんだけど……と思いつつ、周囲がザワザワし始めたので、これ以上もめるのはまずいと感じ、あらためて頭を下げて謝罪の言葉を述べた。


 お姉さんはぶつぶつ文句を言いながら、なんとか去ってくれた。


 大丈夫かな、いまので瞬一郎に気がつかれたんじゃ――と思って、やつがいる方向へと顔を向けた瞬間、息が止まった。


 離れた場所に立っている瞬一郎と、目が合った。


 たちまち、やつは逃げ出した。私のことを憶えていたんだ! そうでなかったら、あんなに必死になって走ったりはしない。


 行く先を塞ぐ人々を次から次へと突き飛ばしながら、瞬一郎は出口に向かって走っていく。私もがんばって追っていくけど、他人に危害を加えるのはためらわれるから、つい「すみません」とか「通してください」と言いながら人々の間をすり抜ける形になる。


 必然的に、瞬一郎との距離は、どんどん開いていく。


「エリカさん! ダメです! 追いつけません!」


『ったく、なにやってんのよドジ! ここ一番で使えないやつ!』


「それはわかってます! あとでいくらでも謝ります! それより、なんとかしないと、このままだと逃げられちゃいます!」


『あーもう! 電話、切るわよ!』


 ブツン、と通話は切断された。


 瞬一郎は、あとちょっとで出口の自動ドアまで辿り着く、というところまで差しかかっていた。


 お願い、エリカさん――と祈りにも近い思いで念じたとき、二階からどよめきが聞こえてきた。


 何が起きたのかと見上げてみる。


 二階の、落下防止のフェンスの上に、エリカさんが立っていた。


「え!? ちょ、危ない!」


 フェンスの幅なんて、足のサイズよりも小さい。そんなところに、サーカスの曲芸師よろしく、エリカさんは乗っている。


 そして、フェンスの上を、走り出した。


 ちょっとでも足を踏み外せば落下しかねない危険な場所を、ためらいもなく駆け抜けてゆく。その向かっている先は当然、瞬一郎のいる方向。


 だけど、エリカさんは、この後どうする気なのか!? 進んだ先には階段はない。一階にいる瞬一郎に追いつくには、もう、他の手段は――


「まさか、そんな!?」


 ダメ、それは絶対にダメ! 失敗したら、エリカさんが、大怪我を負っちゃう!


「やめてえ!」


 私の声は、たとえ聞こえていたとしても、無視されていただろう。


 エリカさんは――飛んだ。


 二階の高さから、両腕を広げて、羽ばたくように。


 ふわりと穏やかに、ゆっくりと宙に舞う。LED照明でまばゆく輝くモールの光に照らされて、きらめく星屑を身にまとう。


 その様は、まるで天女。


 やがて落下が始まるとともに、クルクルと回転しながら、眼下の瞬一郎へと急襲を仕掛けた。


「うわ!?」


 瞬一郎はやっと異変に気がつき、頭上からの刺客に顔を向けたが、時すでに遅い。


「やああああ!」


 裂帛の気合いとともに、エリカさんは、かかとによる浴びせ蹴りを、瞬一郎の頭頂部に叩きつけた。痛々しい音が、こっちまで聞こえてきた。


 床に倒れる瞬一郎。その横に、受身を取りながら着地したエリカさんは、素早く立ち上がると、戦闘態勢を維持しながら、うつ伏せに倒れている瞬一郎のことをしばらく睨みけていた。


 瞬一郎は、ピクリとも動かない。


「やった……!」


 私は小さく喝采を上げると、野次馬をかき分けて、倒れている瞬一郎のそばに駆け寄る。かがみこんで、念のため顔を確認したけど、やはり瞬一郎だ。白目をむいて意識を失っている。


 エリカさんも近くまで寄ってきた。いまだ、自分が瞬一郎を倒せたのが信じられないのか、呆然としている。


「おめでとう、エリカさん」


「え……と」


「ぼんやりしないで! 勝ったんですよ! 瞬一郎に、勝ったんです!」


「私が……勝った……?」


 あまりのことに思考も感動も追いついていないようだったので、私は手を差し伸べると、なかば強制的に握手をした。


「そうですよ! エリカさんが、打ち勝ったんです!」


 突然、エリカさんの両目から、ポロポロと涙がこぼれ落ち始めた。ううう、と嗚咽を漏らしながら、プルプルと唇を震わせている。純粋な喜びが伝わってきて、胸がキュッと締めつけられるような愛くるしさを感じてしまう。私まで泣きそうになった。


「おい! そこ、動くな!」


 怒号が聞こえた。警備員が二人、人混みの奥から迫ってくる。


 グイッと腕で涙をぬぐったエリカさんは、いつもどおりの怒り顔になって、キッと私のことを睨んできた。


「いま泣いてたこと、パーティのみんなに話したら、絶対許さないからね」


「はい、気をつけます」


「気をつける、じゃなくて、『絶対に言いません』でしょ!」


「わかりました! 絶対に言いません! そんなことより、早く、逃げないと!」


「指図すんな! 言われなくたってそうするわよ!」


 エリカさんと私は、モールの外に逃げ出した。しばらく走っていたら、あっさりと警備員をまくことができたけど、安全になっても私たちは駆け続けた。


 自然と、笑いがこみ上げてきた。私もエリカさんも、あはははと笑いながら、夏の太陽の下、汗を流して走ってゆく。


 時おり吹き抜ける風が、いままでにないほど、心地良かった。

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