第15話 近江町市場での戦い

 次の日、一一時ごろ、私とエリカさんは近江町市場の中心部にやって来た。


 世間は盆休み。県外からの観光客で市場の中は、大変な人混みだ。この中から目的の人物を探し出すのは、かなり骨が折れそうだ。


 エリカさんからLINEでもらった、森瞬一郎の写真を、改めてスマホで確認する。


 甘いマスクの二枚目。多少神経質そうな目つきだけど、パッと見は、まともなスポーツマンに思える。だけど、外見がそうだからといって内面がしっかりしているとは限らない。


「なんでスリなんてするんでしょうか。リスクが高いのに」


「才能があったのかもね。上手にできるとなれば、調子に乗って、悪いことであろうとどんどんやるものよ。それに、たぶん、生活がギリギリなんだと思う」


「ヤクザの組に、入ったんじゃないですか?」


「だからって何もしないやつを食わせてくれるわけじゃない。瞬一郎は、小心者だった。誰かと真正面からケンカする度胸なんてない。組からすれば三下もいいところよ。そんな人間だから、結局、ちっぽけな犯罪で生活費を稼ぐことしかない」


「やっぱり……ちゃんと警察に通報したほうが……」


「依頼は依頼。それに、ほら」


 と、エリカさんは壁の貼り紙を指差した。「スリに注意! 最近多発しております」と注意書きが記されている。


「あくまでも依頼は森さんの独断ね。他の商店は何も知らず、普通に警察に届け出ているみたい。だから森さんとしては、息子が警察に逮捕されるよりも早く、私たちの手で捕まえてほしいと願ってるんだと思う」


「だったら、どうして依頼のときに、私たちにまで情報を隠してたんですか?」


「保険よ。万が一の場合、犯人を知っていた、となればまずいことになる。そういう点では森さんはしたたかな男ね。私たちのことをまったく信用しているわけではないから」


 無駄話はここまで、とばかりに、エリカさんは私に背を向け、市場の中に目を光らせ始めた。


 薄手のパーカーにショートパンツ。白い脚がふとももから露わになってる。ほどよく筋肉がついた、引き締まった美脚。相当トレーニングを積んでるんだろう。そのきれいな脚を見て、思わずため息が出た。


 エリカさんも何か武道の経験があるんだろうか。そんなことを考えながら、私はふと、前方に気を取られた。


 道の先、人混みの奥で、何か妙な動きが見える。


 夏場だというのに、ネズミ色のフードをかぶった人が、私たちの前を歩いている。後ろ姿だから顔は見えない。


 フードの人は、上着のポケットに突っこんでいた手をゆっくりと外に出すと、横を歩く女性の隣にさり気なく接近した。


 私は歩くスピードを上げた。エリカさんの「なにしてんのよ!」と怒る声が聞こえたけど、それどころじゃない。


 ほとんど小走りで、急いで距離を詰めた私は、女性のトートバッグに手を差しこんだ瞬間の、フードの人の腕を掴んだ。


 当たりだ。


 フードの人は、女性のトートバッグの中で、財布を手に持っている。


 思わず私は大声で怒鳴った。


「あなたがスリね!」


 たちまち周囲の人々の視線が集まる。しまった、と自分のミスに気が付いた。わざわざ目立たせる必要はなかったのに。


「よけいなことすんな、バカ!」


 エリカさんの注意する声が聞こえた、と思った直後、スリは私の手を振り払った。その弾みでフードが外れ、顔が露わになる。


 写真で見た、森瞬一郎その人だ。


 瞬一郎は無言で、私の顔面を目がけて殴りかかってきた。私は体をさばいて相手の突きをかわしたけど、次に繰り出されてきた蹴りをまともにお腹に喰らい、地面に尻餅をついてしまった。


 その隙に、瞬一郎は近くの店舗の中に飛びこんで、走り出した。


「逃がさないわよ!」


 エリカさんは怒鳴り、勢いよくこっちまで駆け寄ってくる。だけど、すでに瞬一郎は店の奥まで逃げている。間には大きな商品棚があって、すぐには追いつけそうにない。


 このままだと逃げられちゃう――そう思っていたら、私の目の前まで来たエリカさんは、地面を激しく蹴った。


 跳んだ。エリカさんの体は、宙を舞った。それはジャンプなんて次元のものじゃない。幅広の商品棚を軽々と飛び越え、一気に相手との距離を詰める。そのとんでもない跳躍力に、周りの人たちも「おおっ」と驚きの声を上げた。


 すぐ近くまで迫られて、ギョッとした瞬一郎は、そこらへんにある棚や商品をやたらめったら倒して、障害物を作りながら、奥へと逃げようとする。


 だけど、そんな瞬一郎の頭上を、エリカさんはまた跳躍して飛び越すと、軽やかに着地して、相手の退路を塞いだ。


「諦めて捕まりなさい。警察だけは勘弁してあげる」


 エリカさんは、相手の真っ向から指を突きつけて、降伏を迫った。


 瞬一郎は黙っている。私のほうからは背中しか見えないので、どんな表情をしているのかわからない。そのうち、相手の両肩が震え出した。ククク、と笑っている。


「まさかお前に追われる日が来るなんてな。人生ってのは面白いぜ」


「無駄口はいいから、とっとと――」


「うるせえ! 殴られてえのか! あん!?」


 安っぽい暴力的な言葉。千秋さんなら笑って受け流すところだろう。


 だけど、エリカさんは顔を引きつらせて、突然動かなくなった。


(様子がおかしい……!)


 危険なものを感じた私は、背後から、瞬一郎に飛びかかった。だけど、私の動く気配を察したのか、すかさず相手は後ろ蹴りを放ってきた。当たりはしなかったけど、私の足は止まってしまった。


 瞬一郎は駆け出した。


「おら、どけ!」


 動けないでいるエリカさんに向かって拳を振り上げる。


 それに対して、迎え撃つこともなく、「きゃっ!」と悲鳴を上げたエリカさんは、頭を抱えてしゃがみこんだ。


 苦もなく突破した瞬一郎は、そのままお店の奥から、隣の雑居ビルへと入っていった。


 私は急いであとを追いかけた。でも、建物の中の、どこを瞬一郎が移動しているのか、まったく見当がつかなかった。


 結局、見失ってしまい、この日の仕事は失敗に終わった。

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