第10話 魔女のキックが世界を変える

 次の土曜日、千秋さんから電話がかかってきた。


大豆田大橋まめだおおはしに夕方五時集合。遅れないようにね』


 来た。このときを待っていた。


 あの晩から何日も音沙汰がなかったので、本当に依頼を受けてくれたのだろうかと不安になっていた。


 特に持ち物は必要ない、とのことだったので、とりあえず財布だけ持って、自転車を飛ばした。


 夕焼けに赤く染まる大豆田大橋の前で、千秋さんは待っていた。少し暑いので、キャミソールにショートパンツという格好。服の色は、黒を基調としている。この人は仕事もプライベートも、黒色を纏うが好きなようだ。


 気になったのは、肩にかけている巾着袋。千秋さんらしくない、無骨でシンプルな、紺色の袋だ。


「これからどこへ行くんですか?」


 次に連絡があるときは、安西先輩に制裁を与えるときだと聞いていた。けど、具体的に何をするのかは教えてもらっていなかった。


「ついてきて。すぐにわかるから」


 いまは千秋さんについていくしかない。夕暮れ時の町中を、行き先もわからずに、ひたすら歩き続けた。


「ひとつ注意しておくわ。何が起きても驚かないこと。秋山さんはただ怖い顔してくれていればいいから。合図を出すまでは、とにかく私に任せて」


「怖い顔、ですか」


 いよいよわからなくなってきた。千秋さんは、いったい何をしようとしているのか。


 一五分ほど歩いて、目的地に着いた。灰色の壁のビルディング。そこの一階、窓にはチラシが貼られている。どうやらここは、竜虎道拳法の道場のようだ。


(もしかして……)


 あることに気が付いた私は、今回の目的を尋ねようとしたけど、すでに千秋さんはビルの中に入っていた。


 道場は学校の教室ほどの広さだ。その空間に、二〇名近い拳士たちが並んで着座している。一番前には、目つきの鋭い、色黒で大柄な男性が立っている。おそらくこの道場のトップだ。


「ん、見学ですか?」


 私たちに気が付いた道場長は、朗らかな笑みを浮かべ、歓待の態度を見せた。


 だけど、その表情は、千秋さんが発したひと言で、一変した。


「いいえ――道場破りよ」


 無邪気なまでに明るい、その言葉で、道場内の空気は凍りついた。にこやかにしているのは千秋さんだけ。着座中の拳士たちは、こちらへ顔を向けて、険しい眼差しで睨みつけてくる。


 何が起きても驚かないこと、と千秋さんに釘を刺されていたけれど、さすがに動揺を隠しきれない私は、目が泳いでしまった。


 拳士たちの顔を一人一人見回し、目当ての人を発見した。


 安西先輩がいる。


 本人から道場の名前を教えてもらっていなかったから、千秋さんに連れられて初めてこの場所に辿り着いたときは気が付かなかった。でも、そんな予感はしていた。


 ここは、安西先輩が通っている町道場なのだ。


 私と目が合った先輩は小さく体を震わせた。驚いてるようだった。


「言ってもいい冗談は、笑えるものだけだと、親から教わらなかったのかな」


 道場長はパンッと手を叩いた。


 二〇名の拳士たちが一斉に立ち上がった。


 全員黒帯だ。それも男ばかり。どこか暴力的な空気も漂っている。あまり、いい雰囲気ではない。


「あいにく、これは冗談じゃないから」


 千秋さんは臆することなく、一歩進み出た。私はどうしようと迷ったけど、任せろと言われていたのを思い出し、あと怖い顔をしていろと指示されてたので、できるだけ自分なりの鬼のような形相を作り出して、そのまま待機し続けた。


「なぜ私が道場破りに来たのか、心当たりがある人は前に出てきなさい。そうしたらすぐに終わらせてあげる。さもなければ、本当に、この道場を叩き潰す」


「おい、いい加減にしろ!」


 すぐそばに立っている男が、千秋さんに手を伸ばした。


 次の瞬間、男はよろけた。掴もうとした千秋さんの肩は、すでに同じ場所にはなかった。上体を傾けて、男の手をかわしている。男が体勢を崩したところへ、しっかりと重心を乗せた千秋さんは、鞭のような右脚を振り上げた。


 肉の弾ける音が、道場の中に響き渡った。


 千秋さんのハイキックをこめかみに喰らった男は、白目を剥いて倒れてしまった。


 場は凍りついた。


 たった一撃のキックで、世界は一変した。


「かかれ!」


 女性だからと躊躇することなく、道場長は命令を下した。


 四人の拳士が、前後左右を囲んで、構えを取る。卑怯な手口というよりは、冷静に判断しての行動だろう。決して千秋さんを侮っていない。


「なかなかいい対応ね。でも、着替えする時間くらい、くれてもいいんじゃない?」


 悠然と言い放ってから、千秋さんは背後の敵に向かって、巾着袋を思いきりぶん投げた。顔面に巾着袋を叩きつけられた拳士は、「うごっ!」と叫び声を上げる。隙ができた相手に向かって、千秋さんは鋭い足刀を叩きこみ、壁際まで吹き飛ばした。


 他の三人も次々と襲いかかるけど、廻し蹴りや、裏拳を喰らって、あっけなく倒されていく。


 大乱闘だ。中心には千秋さんが立っている。しかも立っている位置がほとんど変わっていない。周りの黒帯たちが、自ら中心に吸い込まれていっては、外へと弾き出されていく、そんな不思議な光景が展開されている。


 この勢いだと、千秋さんはたった一人で、屈強な拳士たち二〇名を全員倒してしまうのではないか。


 安西先輩はずっと戦いの圏外にとどまっている。青い顔して一歩も動かない。彼我の実力差に怯えているのか、あるいはターゲットが自分であると気が付いて、ただならぬ恐怖を感じてるのか。


 脳天に熱いものが上ってくるのを感じた。


 なぜ男らしく戦わないのか。自ら千秋さんの前に進み出て、勝負を受ければ、他の人たちが巻き添えになることもなかったはずだ。


「秋山さん、行って」


 左右から掴みかかってきた二人の拳士を、同時に投げ飛ばした千秋さんは、やや乱れた髪を直しながら、私に向かって声をかけてきた。すぐには意味を掴みかね、まごまごしている間に、状況は一変した。


「はは! 活きのいいお嬢さんが来たもんだ!」


 とうとう道場長が動いた。遠間から一気に距離を詰め、ほんの瞬きする間に、千秋さんの目の前に躍り出た。わずかな予備動作もない、ノーモーションの拳打を、顔面目がけて撃ち放つ。


 千秋さんはかろうじて回避した。だけど、相手の拳が頬をかすめたことで、少しだけ体勢を崩し、戦いが始まってから初めての隙を見せてしまった。


「怪我しても恨むな!」


 道場長は容赦なく第二の拳打を放った。体を傾かせている千秋さんが、まず避けられる攻撃ではなかった。


 それなのに、聞こえてきたのは、道場長の叫び声だった。


「うおおおお!?」


 グルンと体が回転し、空中に投げ出されている。どんな技を使ったのか、まったく見えなかった。まるで魔法にでもかかったかのようだ。


 他の拳士たちを巻きこみ、道場長は床に叩きつけられた。それでも意地で起き上がろうとしたところ、千秋さんのローキックが顔面に炸裂した。鼻血を飛び散らせて、道場長は仰向けに倒れる。


「女の顔を殴ろうとした罰よ。目には目を、歯には歯を――でしょ?」


 最後の問いかけは、私に向けてのものだった。


 思い出した。この道場破りはなんのためにやっているのか。


 千秋さんは、決着をつけるのを、私に求めている。


「……ん!」


 拳を握り締め、歩き出した。


 邪魔をする人間はいない。あらかた千秋さんに倒されているし、残る門下生たちも、道場長が呆気なく倒されたことで、すっかり戦意を失っている。


「あ、秋山。こんなことが、許されると、思ってるのか」


 安西先輩はジリジリと後退した。だけど、すぐに壁際へと追い詰められ、逃げ場を失った。私はただ普通に歩を進めるだけで、手を伸ばせば触れられるところまで接近することができた。


 ほんの少し前までは、安西先輩のそばにいると、何よりも幸せな気分に浸れていた。でも、いまは違う。近寄れば近寄るほど、嫌悪感が増してくる。


「俺は、ちゃんと、真剣に付き合ってた! その相手が、たまたま何人もいただけだ! お前に対する気持ちは、決してウソじゃ――」


 私は無言で平手打ちした。


 痛烈な音が道場内に響き渡り、安西先輩の首がねじ曲がる。


 手の平にピリピリとした痺れを感じる。


 背筋に電流のようなものが走った。それが快感だとわかったときには、私は安西先輩を壁に押しつけ、顔を近付けて、脅しの文句を放っていた。


「そんなに寝言が好きなら、二度と起きられないようにしてあげる」


 握り締めた拳を、相手の眼前に突きつけた。安西先輩は顔をくしゃくしゃに歪めて、いまにも泣き出しそうだ。その情けない様子に気分がよくなった私は、千秋さんのほうを振り返った。


 戦える者は一人もいなかった。床に這い、昏倒しているか、呻き声を上げている。


「お疲れ様。さ、帰りましょ」


 千秋さんは巾着袋を拾い上げると、長居は無用とばかりに、軽やかに身を翻した。

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