第2話 ナイトドレスの魔女

 自転車を停めた市営の駐輪場は、裏手の路地側にあるので、大通りからぐるりと回りこんで、薄暗い細道に入った。


 駐輪場で自転車の鍵を外していると、いきなり、女性の悲鳴が聞こえてきた。


「ええ加減にしてよ! もうこれっきりって、ゆうたやん!」


「うるせえ! 俺のことをバカにしやがって!」


 見れば、反対側の駐車場で、スーツに身を包んだ男が、二〇代くらいの女性を壁に押しつけている。どう見ても穏やかな状況じゃないので、少しためらったけど、近くまで寄ってみた。


 女性は、艶やかな化粧を施していて、胸元の開いたワンピースを着ている。きっと水商売の人なのだろう。いまは私服のようだから、帰り道なのかもしれない。


 声をかけようとして、いや待てよ、と思った。迂闊に仲裁に入ったら、かえって迷惑になるんじゃないだろうか。


 なんて、ためらっている間に、状況は一変した。


 鈍い音が路地に響いた。ダークスーツの男が、女性の顔を、拳骨で殴ったのだ。


「ちょ、ちょっと!?」


 思わず駆け寄った。さすがに暴力を振るうのは無しだ。


「なんだガキ! ひっこんでろッ!」


 ドスの利いた声で凄まれて、足が止まってしまう。助けに入らないと、と思うのだけど、何もできない。大人の男性に敵意を向けられるのは初めてだ。すごく怖い。


「こいつはなァ、俺になめた真似したんだよ! ビッチのくせによお!」


 男は尻ポケットから何かを取り出した。


 ナイフ、だ。


「ひっ、ひっ、ひィ」


 地面に倒れている女性は、暗闇でも鈍く光るナイフを見て、引きつった声を上げた。体をズルズルと引きずり、距離を離そうとする。


 まずい、と思った。男の目は異様に光っている。本気で、あのナイフで、刺すつもりだ。このままだとあの女性は殺される。近くには、頼れそうな人は誰もいない。


 私が、助けるしかない。


 ちょうど女性は駐車場の奥に逃げていて、男はそれを追いかけて、私のほうには背中を向けている。


 いまなら、大丈夫。


 三回深呼吸を繰り返し、意を決して、駆け出した。足音に気が付いた男は振り返ろうとしたけど、私のほうが早い。身を低くして、男の脚にタックルし、地面に押し倒す。相手は頭をアスファルトにぶつけたようで、「ぐあっ!」と悲鳴を上げた。


 ナイフが落ちた。でも、先に男を無力化すべきだ。部活動で習った技を使い、うつ伏せになっている男の背に乗り、肩と腕を押さえ込んで、関節を極める。


「早く! 逃げて!」


 大声で怒鳴った。けれども、女性は腰を抜かしたのか、動けなくなっている。


 押さえ込んでいた男が暴れ出した。パワーに負けて、私は弾き飛ばされた。アスファルトに尻餅をつくのと同時に、男は立ち上がって、ナイフを拾った。


「ぶっ殺す!」


 目を血走らせた男は、殺意を私に向けてきた。躊躇せずに歩み寄ってくる。


 うそ。殺される。


 助かる方法を考えないと、と焦る思いが、余計に頭の動きを鈍らせる。どうしよう、という言葉しか思い浮かばない。指先まで石化したように、体が固まっている。地面に座り込んだ状態のまま、何もできなくなっている。


 男は奇声とともにナイフを突き出してきた。街灯の光でギラリと光る刃先。それが私の心臓に向かってくる。刺されたら確実に死ぬ。


 悲鳴を上げようとした、まさにその瞬間――。


 横から何者かがサッと飛びかかってきて、ナイフを持つ男の腕を、ふわりと柔らかく掴んだ。


 と思った直後、男の体は、空中に吹っ飛んだ。


「う、お、お!?」


 大きく一回転した男は、背中から、地面に叩きつけられた。かなり痛かったみたいで、苦しそうに呻き声を上げて、男はゴロゴロと転がった。けど、すぐに立ち上がった。


「なんだてめえは! この……!」


 ナイフを突きつけようとして、腕を前に上げた男は、自分の右手の中に何も無いのを見て、「……あれ?」と間抜けな声を出した。気が付かないうちに武器を奪われていた、と知ってか、男の顔にじわじわと焦りの色が浮かんでくる。


 私の真横に、カランと、ナイフが落ちた。


 鈍く光る刃をしばらく呆然と眺めていた私は、後ろへと首を回して、ピンチから助けてくれた人の顔を見上げてみた。


 相手の、あまりにも意外な装いに、驚いた。


 黒いナイトドレスを着た、見るからに夜の女性。胸の谷間を隠しもせず、スカート丈も膝頭が見えるほど短め。漆黒のドレスは、曲線で描かれた妖しげな紋様も相まって、まるで魔女の衣装。セミロングの髪は、一回も染めたことがなさそうな、天然のままの黒髪。


 上から下まで黒ずくめの魔女は、微笑をたたえたまま、一歩前へと進み出た。


「ひっ」


 悲鳴を上げて逃げようとした男の背後から、黒い魔女は飛びかかり、またもやあっという間に投げ飛ばして、路上に叩き伏せた。体を押さえつける必要もない。男は背中を強打して、ウンウンと悶え苦しみ、立ち上がれずにいる。


 倒れている男の横で、黒い魔女はしゃがんで、相手の耳元に唇を近付けた。


「次にあの子に近付いたら、腕の骨を、へし折るわ」


 愛くるしい声色で、とんでもなく暴力的なことを囁く。


「な、なんだよ! てめえは一体なんなんだよ!」


「『ウィッチ・パーティ』」


 その単語を耳にした途端、男の目が恐怖で見開かれた。「マジかよ……あの……!?」と怯えた声でつぶやくと、そこからは抵抗の意思を見せることなく、ヨロヨロと立ち上がり、ひたすら「すみませんでした!」と叫びながら逃げ去っていった。


「ありがとうございます! あの、これ、お礼の……」


 突然、男に襲われていた女性が走り寄ってきて、黒い魔女にお金を渡そうとしてきた。一万円札が一〇枚くらいはありそうだ。


「ここではやめて」


 魔女は突き返そうとしたけど、結局無理やり受け取らされ、呆れ顔でため息をついた。


「まったくもう。これに懲りたら、二度と片町で働かないことね。次は普通のバイトでも探したほうがいいわ」


「はい、そうします! 本当に、本当に、お世話になりました!」


 深々と女性はお辞儀して、それでもまだ言い足りなさそうな顔をしていたが、私と目が合うと、気まずそうに顔を背けて、この場を離れていった。


「……見ちゃったのね」


 二人きりになるやいなや、黒い魔女は、私に目を向けてきた。口調は柔らかいが、目つきは鋭い。私はためらいつつ、「はい……」とうなずいた。


「話があるから、来て」


 有無を言わせぬ口調で、魔女は私を手招きした。

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