(小説新人賞最終選考落選歴二度あり)蝸牛を潰して神を問う

牛馬走

ショートショート

   蝸牛を潰して神を問う


 硬質な物が靴の裏で潰れる――次いで、コンドームに触れるような感触が感じられた。

 五歳の頃のぼくは、蝸牛を踏み潰している。

 時間をかけてゆっくりと、愚弄するように踏みにじった。

 胸のうちに、ガラスを引っ掻くような違和感――痛みにさえなりきれない半端な感覚が広がっていく。

 どうだ、見ているか?

 挑むような目で、ときおり空を見上げる。

 その視線は、成層圏を突き抜け暗い宇宙の彼方で嘲笑う者を睨みつけた。

 どうだ、見ているか?

 一匹、二匹、三匹、四匹五匹六匹……集めてきた蝸牛の命が無為に消費されていく。

 他の命を繋ぐ糧ではなく、意味を問うため、実質的には価値の存在しない行為のために使われる。

 背中に、足の裏の感触が甦ってきた。

 昨夜のことだ。

 母を手伝い、食器を運んでいたところを、「テレビ(野球中継)が見えない」と父に蹴られた。

 しばらくの間、呼吸ができずに喘いだ。だが、少しでも距離を置かなければ、という想いで必死に畳の上を這う。みじめなナメクジのように。

 父の機嫌を損ねる行為は、死へ繋がりかねない。

 ただ、生きたい――その一心で、肌を畳で擦りながらも距離を稼いだ。

 とにかく、機嫌が悪ければ奴に、理由など必要ない。とってつけたような理をもって、ストレス発散のために罰を下す。

 なぜ、自分は生きているのか?

 なぜ、誰も助けてくれないのか?

 なぜ、自分だけなのか?

 疑問はぐるぐると、横転する車に乗る人間のように頭の中を回った。

 そして、五歳にして神の存在に疑問を抱いてしまったのだ。

 神がもしいるのなら、自分を救ってくれてもいいはずだ。

 神がもしいるのなら、父に罰を下してくれてもいいはずだ。

 神がもしいるのなら、せめて誰か救いを差し向けてもいいはずだ。

 そんなものは一切ない。

 だから、神の存在に疑問を持った。

 本当に存在するのか?

 存在しないのではないか?

 最も悪い想像が、「神は苦しむ人間を見て喜んでいるのではないか?」というものだ。

 戦争、などという言葉の意味を正確に把握などしていなかったが、ぼんやりとこの世界では争いが常にあり、悲しい想いをする人が膨大な数いると理解していた。

 神がいるのなら、それに対し何らかの手を打っているはずだ。

 それが、ない。

 ということは、神は存在しない。

 だが、心のどこかでそれを否定したい気持ちがあった。

 もし、神がいないのなら、誰も自分を救ってくれないことになる。

 それは、とてつもない恐怖だった。

 いつまで続くともしれない暴力――その当時、二十歳(ハタチ)など量子論がその存在の可能性を示す並行世界よりも遠かった。

 それに、いつまでも耐えなければいけないかもしれない、という事実。

 一切の光を拒む奈落へ突き落とされたかのような恐れが、胸のうちを満たす。

 それを拒絶するための必死の発想が、「神を試すこと」だった。

 罪を犯せば罰が下る。

 それが証明できれば、ぼくは神を奉じることができた。

 だから、命を奪うことにしたのだ。

 他の生命の火を吹き消すのは、とても罪深いことだ――そう認識している。

 それ故、手近な動物、蝸牛を殺すことで神に試験を課そうと思った。

 蟻ではなく蝸牛だったのは、そのときそれらを捕まえるのに熱中していたことと、ある程度手応えがあることで、命を奪ったと実感できるからだ。

 だが、結果は……

「けいちゃん、そんなことしたらダメだよ。蝸牛さんが可哀想でしょ?」

 同じマンションの住人の女性が、優しく注意しただけだった。

 そうか……そうか、この程度なのか。

 それが、ぼくの感想だ。

 拍子抜けしてしまう。命を奪ったというのに、罰など下らなかった。

 蝸牛とはいえ、大量に殺した。

 腕の一本や二本、最悪命を失うことを覚悟していたというのに。

 むしろ、自ら命を絶つのは怖いから、殺してくれないかとさえ思っていたというのに。

 神は最も残酷な処置を施した。

 あるいは、神は人が思っていたよりも無力か、存在しない。

 もしくは、神は人が苦しむ様を見て喜んでいる。

 この瞬間、すべてにして唯一の希望を失った。

 足もとが崩れ落ちる感覚に襲われる。

 だが、奈落へと落ちていきながらも、ぼくは清々しさを感じていた。

 何もかもを失ったことで身軽になり、胸のうちを涼しい風が通り抜けるような気分になっている。

 永久の時間をかけて磨った墨のような濃密で、触ることさえできそうな闇の中を堕ちていった。

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