暁の心
陽登 燈
第1話
「ソニック、今日も良い天気ね」
母はそう言って、天板から微かに漏れる陽に手を翳した。母の手は細く、白骨の様に痩せ細っている。揺らぐ手のひらを窪ませて、母は陽を受け止めていた。まるで流れる水を汲むみたいに。
母の白さが際立って見えたのは、ここが暗い地下であり、そしてそれは真っ直ぐ上にある鉄の重たい天板が陽を遮っているから。
僕は母の言葉の意味が分からなかった。地下に暮らす僕達には、天気なんて関係ない事だったから。そして、そこまで深く考える余裕も無かった。
地下の湿った土達が陽によって蒸れ、カビと土と焦げの臭いを強烈に発している。生温い空気の中で感じるそれらで、僕は何度もえずく。
けれども、母は堪えている素振りもなく、綺麗な笑みのままだった。まるで清浄な空気を吸い込んで浄化されているかの様な清々しさもあった。
僕は、そんな母に何の言葉を返せば良いのか分からなくて、何も答えられなかった。そして、これで良かったのかも分からないまま、母を見つめていた。母が亡くなるまで。
地球にいる僕達人間は、地下で暮らしていた。
昔を知る大人達が教えてくれた話はこうだった。
人間は昔、地上で暮らしていた。しかし、地上が温暖化で高温となり、生物が住めなくなってしまった。人間は地下に潜り、或いは宇宙へ逃げ出し、流亡の時々に黄昏れた。そして、宇宙に発情した残念な人々は、崇高な面持ちを再び手にする為というくだらない理由で宇宙を開拓する。そうでない残りの人達は、この母なる地球と運命を共にする喜びを感じながら、その土に帰る事で救われるのだ、と。
僕は、そんな人間の行いや考えというものがとてもくだらない事としか思えないでいた。母なる地球も、救いも、この地下にある筈が無いと思っていた。この世界にあるのは、暗闇と湿った土と、苦しみぬいた死だけ、だからだ。大層に語っていた大人達も、病に苦しみながら死んでいった。
暗い地下で巡る、そんな老生達の痛ましく華奢な終い方に、僕は鈍重ではいられなかった。
だから僕は、そんなくだらない事に関わらない、ただ一つの事に思いを馳せた。光ある所での生、というものに。
僕は、この真っ暗な地面をじっと見つめながら、そんな生き方がどんなものなのかを妄想し続けていた。周りの大人が死んでゆく中で。
母も例外では無く、病に冒されていた。常に苦しみ悶えていた。苦しみで足掻く体も、日に日に動かなくなっていった。やがて母は、寝たままで一日を過ごす様になった。病が体の奥に到達した頃には、母の苦しみの声が一日中鳴り響く。早い息遣いの合間に、酷くくぐもった呻きと叫びを、隣の僕に浴びせてくる。僕は地面を見つめながら、その声が聞こえないふりをするしかなかった。
母は、ただただ弱っていった。
そしてある日、僕にお願いをしてきた。陽を浴びたいと。
だから僕は、母を背負い、陽のあたる所に連れて行ったのだ。陽を浴びればどうなるかを知りながら。
母の骨張った体がとても脆く感じて、僕は恐る恐る歩いていた。少しの振動でも折れてしまいそうな気がしたからだ。そして実感した。まだ十二歳の、体の小さい僕でも軽々と背負える程、母の体というか命が軽くなっていた事を。
母は陽を見つけると喜んでいた。
母は僕の背から降りると、よろけながら陽の下へ歩いた。そして陽の下で立ち尽くすと陽を見上げた。陽を体で吸収して、白い体を見る見るうちに赤く染めていく。
やがて、母の服がちりちりと燃え始めた。火は遠慮なく母の体を這って広がり、たちまち大きな炎となった。
僕は、目を見張った。それは、痛ましい光景だったからでは無かった。
母は、見た事も無い様な煌めく炎を纏う女神となっていた。炎は、上から差し込んでいた陽の光よりも強く光り、全てを隠す地下の暗闇とは反対の、あらゆるものを照らす光。とても正しさに溢れた光、音を齎す光、昔見た鳥の羽ばたきの様な、揺めきのある生きた光、それが母の炎だった。
その炎と母を、僕は更に食い入る様に見ていた。何故なら、その炎の中にいる母は、とても綺麗で安らかな顔をしていたからだった。
上から降りてくる陽を、ゆっくりとした
僕は、時間が止まっているのだと思った。いつまでも綺麗なままの母を、目を見開いたままの僕は、呼吸はおろか、早くなった心臓の鼓動すら忘れさせられながら、見せつけられていた。
その時はたしかに、僕は妄信していた。母が女神の正体を現したのだと。そして、誇らしさを覚えた。女神の子供であるという事に。
しかし残念な事に、炎は時を絶えず動かしていた。
時が動き出したと感じたのは、その女神が端から黒く焦げ始めた時だった。
「ありがとう、ソニック、……てくれて」
炎に包まれる間際の母から発せられた途切れ途切れのその言葉が、僕にとってはどうしようも無い程、つまらない響きに聞こえた。そして、とても暗い気持ちにさせられた。
僕は、涙というものが僕にもあるのだという事を、初めて知った。
横たわった母の火は小さくなり、やがて音も無く消えた。
最後の火が消えても、とうとう母が再び女神になる事は無かった。
残ったのは、黒く小さくなった母を照らし続ける陽と、悪臭の中で咽び泣く僕だけだった。その陽もやがて明るさを失い、僕だけが取り残された。
いつもと変わらない筈の暗闇が、僕に酷い事をしようと企んで取り囲んでいる様な気がした。
その中で僕は、暗闇よりも暗い母のなれ果てを見て思ったのだ。母の様に、こんな臭くて湿っぽくて惨めな暗さの中で死にたくはない、と。どうしたって救いなんか無い、と。
気づくと僕は、母を放置したまま逃げる様に走り出していた。息を切らしながら、暗闇の地下を走った。後ろを振り向かずに黙々と、暗い方へ狭い方へと突き進んだ。そうして次第に、走り続けなければならないという強迫の様な思いが強くなり、僕の足を走らせ続ける様になった。無力な僕は、それに従うしかなくなっていた。
僕は走っている間に、自分がどうすれば良いのかを考えていた。考えなければならないと思った。足の裏の皮が剥がれても、僕は僕の事、これからの事だけを考え続けた。
母の事、人間の事。地下の暗闇の事、陽の光の事。生きる事と死ぬ事。無力な自分の事。
次の日の陽が差し込む遠いどこかで漸く、僕は止まった。疲れ果て座り込んでみると、靴の底は切れてボロボロになっていて、剥がれた足裏の皮がそこから飛び出しているのが見えた。
天板の隙間からほんの僅か、糸程の細さの陽が地面を焦がしている。その細い陽が垂れているというだけで、この地下の洞窟は光に乗っ取られて、隠れたものが浮かび上がっている。僕の靴も、剥がれた足裏も。
僕は、意識を足の痛みと心臓すら眠ってしまいそうな程の疲れに引っ張られ、堪え切れずに横たわった。そうして目の前にある陽の糸を見つめていた。
ふと、何かが口から出てくる様な感覚がした。
「僕は」
口から、空気が抜ける様にして言葉が出ていた。その言葉は、全く意識していないものだった。
僕はその事に驚いた。気づけば指がゆっくりと自分の唇に触れていた。
次いでまた口から出てきそうな感覚がしてくる。
「生きたい」
僕は、情けなさすぎて泣いた。涙も声も枯れ枯れで。泣きながら疲れて、いつしか寝てしまっていた。
どれほど眠っていたのかは分からなかったが、まだ陽はそこにいた。
その陽の暖かさで、体が生き生きとしているのを感じる。頭の中まで暖かくなっていた。
僕はもう一度目を閉じて、色々な事を考えた。人間の事、陽の事、そして生きる事。
そんな中で、昔の事を思い出していた。
大人がよく語っていた。人間は、生身で陽の光を浴びる事が出来ない。かと言って、土竜に成る事も出来ない。まだ地上で暮らしていた頃の事を、陽の暖かさを、人間はいつまで経っても忘れられない、と。優しく降り注ぐ、壮大な唯一の清光、それが太陽だ、と。
この地下で生まれた僕は、その言葉のどれもを全く理解出来ていなかった。僅かに触れただけでもけたたましい程に熱い陽が、僕の目の前で母を焼き尽くした陽が、そんな生優しいものであるはずがない。
でも、そんな優しい陽の光があったら良いのに、と思った。優しい陽があったなら、今の僕の悲しみも寂しさも無かったかも知れない、と。
だから僕は、暖かさのある陽というものを知ってみたくなった。そして、何らかの光に照らされたままの、暗くない世界で生きたいと思った。
僕は、衛星現調士になりたいと思った。
母が生前、成りたいと言っていた衛星現調士に。
母は、宇宙が好きだった。
「宇宙には、沢山の信じられない事が起こっているの。私達人間が誕生した事だって、とても奇跡的な事なの。そして、宇宙はとても神秘的な輝きを沢山持っている」
母は何故か宇宙の事を、よく教えてくれた。僕は宇宙の輝きというものが気になっていた。
衛星現調士。衛星を現地で管理するその仕事は、志願者をいつでもパイロットにしてくれる。ポッドという一人用の宇宙船が、自動で且つ安全に目的地へ搭乗者を運んでくれる。簡単に誰でも成れる職業だった。そして、宇宙に身を委ねるからこそ、簡単に死にゆく職業でもあった。
死が怖くない訳では無かった。それでもこの職業を選んだのは、母が言っていた輝きの近くで生きたいという思いの方が勝っていたから。闇にこれ以上、僕の人生を喰わせたくなかったから。
俺は衛星現調士になった。
何百回とただひたすらに宇宙へ繰り出した。
母の言っていた通り、宇宙はとても神秘的だった。
無限に広がる星の煌めきに惚れながら、俺は自分の生き方というものを探した。
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