7.メロス


      7 メロス 


「はあ、はあ、はあ…………」


 入り口の自動扉の前を通り過ぎ、建物をぐるりと回り込むようにして進む。ようやく息がつけたのはゴミ集積場の横にたどり着いたときだった。シャッター越しに漂う生ごみの臭いに包まれながら物陰に腰を下ろすと、通用口の扉の隙間から光が漏れているのが見えた。


「アレは何だったんだ?」


 永井はどさくさに紛れて盗んだエナジードリンクのプルタブを開けていた。しかし、一口含んだ途端、ペッと吐き出した。


「まず。何コレ、おしっこ?」

「永井」

「なに? 口の中がサイアクなんですけど」


 そして、そのまま通用口の横に設置された自動販売機に近づくと暫く悩んだ末にアップルジュースのボタンを押した。その姿に緊張するとか警戒するとかの気色はまるでない。あまりにも無いのでこっちは呆れるしかなかった。


「そこ、あんま近づかないほうがいいわよ」


 350ミリ缶を口に含みながらアスファルトを指さした。そこには先ほど自分が吐き出したエナジードリンクが黒い影となっている。


「汚ねえな」

「かふかの唾液が混ざっているからクラヤミが誘われてくるわよ」

「なっ―――」


 慌てて腰を浮かすと別の角に移動した。そして、その間に晦虫たちが共食いを始めた理由を僕は理解した。


「おまえ、僕のお金に何かしたな」

「メロスのお金じゃない。あれはかふかのお金よ。メロスの持っているものは全部かふかのものなんだから」


 まるで僕の方が間違ったことをしでかしたような口調。


「だって、メロスは全部私にあげるって約束したじゃない」


 僕の記憶ではこの女はそれを断ったはずだし、時系列も合わない。しかし、相手は永井かふかなのだ。


「わかったわかった。とにかくおまえの臭いがするもの、特に分泌物はクラヤミを惹きつけるんだな。そして、猫がマタタビに酔うみたいに狂わせると」


「言い方がいやらしい」


 永井はそう言って僕に蔑みの視線を寄越したが、否定はしなかった。

 それにしても恐ろしい女だ。僕が風呂に入っている隙にお金にマーキングをするとは。今回はたまたま窮地を脱するきっかけとなったが、そうでなかったらどんなトラブルに巻き込まれたものかわかったものではない。


「メロス」


 幼児がやるみたいにジュースの中身を何度も缶に戻しては口に含みながら永井が言った。


「なんだよ」

「もう一度はないからね」

「…………ああ」

「ちゃんとわかっているの?」


 突然、両頬を掴まれると無理矢理顔を振り向かされる。目の前には普段と変わらない無表情の永井かふかの顔。双子の黒水晶のような瞳が僕を覗き込んでいる。


「メロスはおかしい」

「…………わかっているよ、そんなこと」

「かふかね、メロスに見捨てられた後に相談室に忍び込んだの。白瀬のヤツ、バカだからロックをかけずにPCが起動されたままだった」


 先生のことだから大いにあり得ることだ。あの人はやることなすこと迂闊すぎる。


「だから、かふか、メロスが転校した理由を知っているんだから」

「そうか」

「メロスは吐き気がするぐらい”いい人”なんだね」


 あの頃のことは何も考えられない。

 頭の中には白い闇がずっと広がっている。


「でも、そんなのは大嘘。前の学校では自分に何の得もないのに□□さんを助けたのに、かふかのことは助けてくれなかった。世界で一番不幸なかふかを見捨てて逃げた。だから、すごく頭にきちゃった」

「だから、僕に付き纏うのか?」

「そうよ。偽善者のメロスはかふかのために贖い続けないといけないの。メロスは血の一滴に至るまでかふかに捧げないといけないの―――」


 永井は言葉を一旦切ると僕の唇を塞いだ。永井かふかの唾液が僕の中に流れ込んでくる。アップルの味をした、この世の悪を惹きつけずにいれない猛毒が僕の体液の中に混ざっていく。


「だって、もったいないじゃない?」

「もったいない?」


 白い糸を舌で舐めとると永井は言った。


 ―――だって、あなたは魂に穢れを持つ人間にとって大好物だもの。

 ―――喰い散らかされる前に食べないと無くなっちゃう。

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