5.永井かふかという毒 その二①


    5 永井かふかという毒 その二 


「夕暮れの校舎を走って逃げていくメロスの無様な姿が目に焼き付いているわ。貪り食われている私を助けもせず、たった一人遺して、ね。忘れられたくても忘れられない、なんなら今すぐ殺してやりたいぐらい」

「仕方がないだろ。バケモノ相手に中学生のガキが何ができる」

「また言い訳。メロスはそればっか」


 もちろん、僕だってあの夕暮れの校舎での出来事が現実にあったことと信じていたわけじゃない。あれはストレスの見せた幻視であって、永井が僕に絡んでいるのはたまたま事情も知らずに話しかけたから。むしろあの日のことを口にすることでただでさえ妄想気味の永井かふかに隙を見せることを恐れた。


「でも、じゃあ本当にあれは」


 永井はレンジの上の籠に入ったレーズンロールの袋を破るとパンとレーズンを分け始めた。たまにレーズンをつまんでいるので嫌いではないようだ。


「あの影は何なんだ?」

「教えたら、メロスはかふかを助けてくれるの?」


 細い指をパンに突っ込むと中のレーズンを掻き出す。その度にパンからマーガリンが零れて永井の指を汚していく。


「助けられないけど、一緒に考えることはできる」

「何それ。いかにも卑怯者が言いそうなことね。自分は安全地帯にいながら『可哀想』『可哀想』と喚いて涙を流すというワケ。死んじまえ!」


 パンが掌の中で潰れると指の間からマーガリンがだらりと垂れていった。それを永井はぺちゃぺちゃ舐め取ると僕のことなど見もせずにくすりと笑う。


「私たちは『晦虫』と呼んでいたわ。私は単にクラヤミと呼んでいるけど」

「晦虫? 私たち? どういう―――」


 質問を重ねようとする僕を遮るように永井は目の前に手を突き出してきた。そして、その顔は笑顔。嫌な予感を覚えたが、それを言語化する前に永井は更に手を突き出す。


「きれいにして。そしたら話してあげる。もちろんメロスの舌でね。食べ物は大切にしないといけないわ」


 脂まみれの指が鼻先にある。きれいな指だった。節くれだっていない、およそまともに使っていないであろうほぼ新品の指。


「晦虫は闇を食べる虫。連中の仲間は普通の闇を食べるけど、晦虫が食べるのは栄養価の高い人の心の闇だけ。あいつらは凶暴で貪欲で食べるものの影響で知能もすごく高いわ」


 伸びきった爪が口腔を掠め、生温い血が流れ出す。永井の指は目ざとくそれを知覚するとぱっくり開いた傷に頭を突っ込んできた。目の覚めるような痛みが襲うが、咽ることもできないので窒息死しそうになる。


「晦虫は人の心の闇を食べるけど、それ以上に好きなものがある。それはね、人そのものよ。人間の中にごく稀に実体と空想の境が曖昧な特異体質が生まれることがあるんだけど、それはアイツらにとってこれ以上ないご馳走なのよ。ま、そういう人間は赤子のうちに喰い散らかされるけどね」


 夕暮れの校舎の影を、ベランダでBBQを楽しんでいたバケモノたちの姿を思い出す。確かにあれは好物をうまそうに食べる姿だった。


「でもね、何事も例外があるように例外にも例外がある」


 ぞくりとする声音。

 見上げると永井かふかがいかにも楽しそうに笑っている。笑いの起源は縄張りを守るための威嚇行動、ひいては他集団への嘲笑と聞いたことがある。永井かふかは多種多様な笑いを浮かべるが、根源オリジナルを色濃く残しているのかもしれない。


「キノコには食べられるキノコと見た目がそっくりな毒キノコがある、て知っている? 山菜採りに行った年寄りが毎年何人も死んでいるやつ」

「…………それがお前だというのか?」

「さあ? 知らない」


 自分の指を飴か何かのように舐めまわし、時折思い出し笑いをしてはクスクスと嗤う。その瞳は黒い加虐心に染まりきっていた。


「さっきもあの放課後のときもおまえは確かに喰われていた。でも、外傷が全くない。おまえは不死身なのか?」

「そんなわけないでしょ。メロスはバカなの?」


 自分の喋りたいことしか喋らないのでここからは僕の推測だ。永井は「晦虫は人の心を食べる」と言った。ということは、実際に喰われているのは精神的なものだと思われる。肉体的には外傷はないが、喰われきってしまえばやはりその人間は死ぬ。

 永井かふかに不死性があるとすれば、一度喰われた後で晦虫の自らの毒で殺した後、喰い返す(乗っ取り返す)ような方法で再生するのかもしれない。

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