2.教室の幽霊②
それから永井はそのルートをすらすらと口にした。まるで子供が恐竜や新幹線やポケモンの名前を暗唱するかのように。
1階を左回りに1周、2階を左周りに1周してから右に1周、一度3階の踊り場に行ってから1階まで降りて右周りに1周、最後に2階を右に1周半。
「レトロゲームのダンジョンじゃあるまいし」
「ねえ、この間失踪した女の子って、そこに迷い込んだじゃない? 迷子になっているうちに偶然そのルートを通ってしまったんだわ」
「おい、やめろ」
周囲を見渡すが、混雑していることもあり永井の不謹慎すぎる発言を耳にした人はいないようだった。報道では家族やボランティアは周辺を探し続けているという。女児の友達や保護者がこのモールに来ている可能性だってあるだろう。そして、この後、永井かふかが何を言うのか容易に想像できるからこそ尚更不快だった。
「ねえ、試してみない?」
「イヤだ」
僕は永井のトレイも重ねてしまうとそのままゴミをゴミ箱に放り込む。握ったカップの結露した水が手に粘りつくようだった。一瞬迷った末に残っていたミニッツメイドを喉に流し込む。少し咽かけたが、どうにか誤魔化した。
振り向くと永井の姿はなかった。テーブルの上にはカップだけが残されている。うんざりしながらカップを手にすると白い唾液にまみれた氷が目に入った。
カレーライスはいいものだ。
具材を切って鍋に煮込むだけ。ルーのパッケージに書かれた分量さえ守れば作り手の技量はほとんど関係ない。材料が足りなくてもそれなりに満足感はあるし、何日も食べられるうえに飽きたらカレードリアやカレーうどんに転用できる。それさえ面倒臭くなったらトーストの上に塗って軽く粉チーズをまぶして焼くだけでもいい。
高くついた昼食を終えると僕は激安スーパーを梯子してカレーの具材を揃えた。多少形が不格好でも熟れすぎても鍋に煮込んでしまえばわからない。鍋に具材を入れてしまうとコンロの火を弱火にして調理は終了。
陽が落ち始めた空を見ながら洗濯物を取り込むと図書館で借りてきた本をテーブルに広げる。その傍らにはお茶とフードバンクでもらった焼き菓子。
うん、連休初日の終わりとしては悪くない。
しかし、そんな穏やかな時間は僅か3ページしか続かなかった。
「あー、いい匂い。カレーだ。かふか、カレー大好き」
まるで勝手知ってる様子でキッチンに上がり込むとその悪意の塊はいけしゃあしゃあとカレーの匂いを小さな鼻で吸い込んだ。
「な、なんで…………」
「だって、かふかはお金持ってないし。そのお金が無くなったのはメロスのせいでしょ」
そう言いながら永井は小首を傾げる。こいつはどうして当然なことを聞くのだろうという表情で僕のことを見つめていた。
「いや、自分の家に帰れよ」
「かふかには家なんてないわ。だから、あのお金が私の全財産だったの。アンタ、自分のしでかしたことをちゃんと理解してるの?」
状況の理解に頭が全く追いつかない。言葉を失う僕を嘲るように永井は賞味期限があと数日の焼き菓子を口にほうばる。
「うわ、何これ。おいしー」
「食べるなよ!」
「うわ、キモ。アンタ、菓子ぐらいでなに声荒げてるの? すっごくガキっぽいよ」
糸のように細くなった目が冷ややかに僕を見つめる。
わからない。この女のことがまるでわからない。
永井の家庭事情が僕の家よりも良くないことはその容姿を見ればわかる。
そして、永井かふかは―――。
「なあ、僕はどうしておまえに―――」
「メロスが、かふかを助けてくれなかったからだよ」
「だから、あのときは相手の人数が―――」
「そうじゃない!」
温度も感情も消えた声が全てをシャットダウンする。人形めいた顔が僕の瞳をじっと見つめていた。まるで魂の裏側まで見通すかのように。
「メロスはかふかを見捨てた。かふかはメロスに殺されたの」
「……………………」
「人を殺した殺人犯は罪を償うのが世の理だわ。だから、メロスは残る一生をかけてかふかに償い続けなければならないのよ。アンタの持っているもの、血の一滴ですらみんなかふかのもの」
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