いつかその雫に愛を懐う。

名々詩

いつかその雫に愛を懐う。

 果たして私は、なりたかった大人になれているのだろうかと、あてどなく考えることがある。そもそも、私はどうなりたかったのか、何をしたかったのか。もっと選ぶべき道があったかもしれない、だとしたらどこで何を間違えたのだろう。

 ひたすらに労働に勤しみ、一人暮らしのアパートへ帰って眠る。職場と家とを行き来するだけの日々。根が真面目だからか、職場ではそれなりの評価を得ていて、同僚や上司との関係は良好だし、経済的にも余裕がある。

 おそらくは同世代の社会人と比較しても、順風満帆といえる人生を歩んでいるはずだ。

 けれど、社会的に充足感を覚えれば覚えるほど、どこか満たされないような、仄暗い疼きが胸に広がる。たまに美味しい物を食べたり知人と遊んでみたりしても、その場限りの享楽を得ているだけだと斜に構えている自分がいる。

 ぽっかりと穴が空いてしまったようで、だけどその穴を埋めることも出来ない。私はいつからこうなってしまったのだろう。昔は、もっと満ち足りていた、ような気がするのに。

 普段は物静かな私のスマートフォンにメッセージが届いたのは、そんなある日のことだった。

 こういうことを青天の霹靂というのだろうか。とはいえ少し大袈裟な気もする。だけど、二つ年上の先輩である深山和みやまなごみからの連絡は、平坦に惰性で日々を生きている私としては、そう言っても差し支えないくらいの出来事であった。

 在学中はとてもお世話になっていたけれど、先輩が卒業してからは疎遠になり、そのまま私も卒業して五年の月日が流れている。

 和先輩はその存在すらも薄っすらと風化しかけていたのだけれど、「食事でもどうだろうか」と簡素なメッセージに目を通せば、先輩と過ごした時間が色鮮やかに脳内を巡り始める。褪せた写真が一気に色づくように、記憶が色彩で満ちていく。

 何故だろう、すっかり忘却の彼方に追いやってしまっていた。どうして忘れてしまっていたのだろうか。そうだ、あの人は私にとって最も親しい人間だった。

 色々なことに戸惑いを覚えながらも二つ返事で了承して、お互いの予定が合ったのは一週間後だった。

 土曜日の夕方。久々に会った先輩は記憶にある姿と変わっていなくて、駅前の雑踏のなかでもすぐに見つけられた。少し背が伸びただろうか。先輩、と声をかけるよりも先に目がばっちりと合う。

 ひらひらと手を振る先輩に近付いて、まずは何を言おうかと思考を巡らせていると、ふっと先輩が微笑んだ。

「ゆずは相変わらず小さいねえ」

「ぶん殴りますよ」

 懐かしい穏やかな声で、開口一番何て失礼なことを言うんだこの人。ゆず、と呼ばれたのも随分と久しい。優月ゆずきだからゆず。安直で呼びやすいけれど、私をこう呼ぶのは先輩だけだ。

「少しは伸びましたよ、ニセンチくらい」

「誤差だしたぶん測定ミスだよ」

「喧嘩するために呼んだんですか今日」

 「イタリアンジョークだよ」と笑って受け流す和先輩。どの辺りにイタリアンな要素が含まれていたのだろう。いや適当に喋ってるだけだろう、この人は昔からそういうところがある。

 ふわふわと綿毛のようにつかみどころがなくて、悪戯っぽいのに柔和な雰囲気を纏っている。不思議な魅力を持つ人だ。

「お店、予約してあるから行こっか」

 再会の挨拶もそこそこに、手を引かれるがままに着いて行く。誰かと手を繋いだのは随分久しぶりだった。

 しばらく歩いて辿り着いたのは、少し入り組んだ路地に佇む、カジュアルめな居酒屋さんだった。目立たない立地故だろうか、休日の夕方にも関わらず閑古鳥が鳴いているようだった。

 「十七時に予約している馬酔木あせびです」と、何故か私の名前で予約していたらしい先輩へ訝しむ視線を送れば、「ゆずの苗字かっこいいからたまに使ってるよ」とどこか得意げな顔。身分証とか確認されたらどうするつもりなんだ。

 六畳くらいの個室に通されて、メニューを眺めて適当に飲み物と料理を注文してしばらく、お通しで出てきた枝豆をちまちまつまみながら先輩の様子を窺う。

 ここへ来るまでの間、交わされたのは他愛もない会話で、せいぜい「涼しくなってきたね」とか、「税金高くなったね」とか「やっぱり身長縮んだね」とか。うるさいんだよな。とにかく、今日の目的については何も言わなかった。

 同様に枝豆を食べている先輩は、よくわからないけれど、何だろう。少し様子が変な気がする。様子というか、空気感?

 うまく言えないけれど、嫌に落ち着き払っているように見える。いや、以前から特別騒がしい人だったわけではないのだ。木漏れ日みたいに穏やかで、一緒にいると落ち着く人ではあった。けれど、そういう穏やかさとは違う、むしろどこか不穏とさえ取れるような静けさ。

 数年ぶりに会っただけの後輩が、易々と踏み込んでもいいものだろうか。

 そう足踏みしてしまっているうちに、注文したものが運ばれてくる。ジンジャーエールと、料理が数品。

 お酒が飲めない私たちは、何となくアルコールに比較的近そうだという偏見から最初はジンジャーエールを注文する。飲酒はしないけれど、居酒屋の料理が好きだという謎の共通点がある私たち。そういえば、以前は二人で週末に居酒屋巡りをしたなあと思い出して、懐かしさに頬が緩む。そんなことも私は忘れてしまっていた。

「なんでにやけてんの?」

「別に。気にしないでください」

「ふうん……ま、大人になると懐古趣味に走りがちだよねえ」

「気づいてるのにあえて聞くの本当に性格悪い」

 膨れる私を無視して「かんぱーい」とグラスを適当に鳴らして、ぐいっとジンジャーエールを呷る。倣って私も口を付けた。

 そこからは、まあ。取り留めもない時間が流れていった。昔の話、今の話。当時の友人たちの話、家族の話。過去の話と現在の話があっちこっち行き来して、まるでタイムマシンにでも乗っているかのような不思議な時間だったけれど、私も先輩もたくさん笑った。それだけでいいと思った。思っていたのだ。

 不意に、据わった目をこちらに向けていることに気づく。

「実は今日さ、ゆずに話があるんだ」

「……まあ、そうでしょうね」

 何年も連絡を取ってなかった先輩から、突然食事の誘い。何もない方がおかしい。結局ここまでの時間で、それを探り当てることは出来なかった。

「酔いが回る前に話しちゃおうかなって」

「アルコールは摂取してないはずですが」

「や、雰囲気にね。酔っちゃうかもしれないじゃん」

「…あの、真面目な話なんですよね?」

「そうだね」

「何で一センテンスに一ネタ挟まないと気が済まないんですか」

さがだよねえ」

「…………」

 真面目な話をする気があるんだろうかこの人。私の心配を他所に魚料理を一口つまんだ先輩は、「美味しいな煮魚」と溢して。

「──あと三年とかみたい、余命」

「 」

 と、何でもないように言った。まるで過去を懐かしむように、今を慈しむように。今までと何も変わらない、穏やかな声で言ったのだ。

 よめい、と受け取った言葉を処理しきれず、私は馬鹿みたいに口を開けて間抜け面を晒すことしか出来なかった。

「何か、雲がかったみたいに詳しい病名とかはほとんど覚えてないんだけど、余命宣告されたことだけはやたら明澄でさ」

「あの」

「そっかあ、死ぬんだなあっていうのは。まあ、わりとすんなり受け入れられたんだけど」

「ねえ」

「当面の問題としては余生をどうするかと、最期を」

「おい待てって」

 ようやく追い付いてきた思考の必死さたるや。荒くなる呼吸も言葉遣いも、今は全て、何もかもどうでもよかった。

「ゆず、私先輩なんだけど」

「そんなこと……ていうか、あと三年って」

「うん。私の余命だね」

 ふんわりと笑いながら残った料理を口へと運ぶ。なんで、どうして。どうして、笑っていられるんだ、この人は。ずき、と胸が痛くなる。

「死ぬのが既定路線なら、じたばたしても仕方ないよ。泣き喚いても期限が延長されるわけでもないし。ていうか泣いたら余計に寿命減る気がするし」

 そんなことはないだろう。だけど、そうか、ようやく合点がいった。やけに落ち着いてると思っていたのは諦観からだったのか。

 全部を諦めて、悟って、受け入れているふりをしているのか。

 どくん、と心臓が鳴る。

「なんで、私に?」

 目下の気掛かりはそれだった。なんでそんな大事なことを何年も会っていなかった後輩に話すのか。

 和先輩は食べる手を止めて、箸を置き。さらに居住まいを正して、まっすぐ私を見つめた。

「ゆずに、お願いがあるんだ」

「……お願い?」

「うん」

 先輩はほんの一瞬目を伏せたけれども、またすぐに目が合った。

「馬酔木優月さん」

 琥珀色の瞳に吸い込まれそうになる。こんなに真剣な様子の人を見ることは、もしかしたら今後一生ないかもしれない。ぴん、と張り詰めたそれに、触れようとすれば切られてしまうのではと思うほどで、私も息を呑む。

「私が死ぬまで、私と一緒にいてくれませんか」

「…………は」

 これは、なんだ? 今、何て言った? 一緒にいてくれと言ったのか? いや、それよりも。

 なんで頬を染めているんだこの先輩は。

「……あの、……プロポーズ…?」

「……まあ、そう、なるのかなあ」

 「なっちゃうよねえ」とはにかんだ先輩からは、すっかり先程までの固い雰囲気はなくて、私は肩透かしを食らった気分だった。

「私がゆずのこと好きなのは、まあ知ってるでしょ」

「それは、うん。はい。」

「そこで照れられると話しづらくなるんだけど」

 うるさいな。

「どうせ死ぬなら好きな人に看取ってもらいたい──というか、本音言えば命が終わる時は好きな人の手で、って思ってるんだけど」

「物騒なこと言わないでください」

「えー? 夢じゃない? アイハブアドリームよ」

 あ、戻ってきたなと直感的に思った。さっきまでの真剣さは完全に鳴りを潜めて、穏やかな声色と微笑みが表出している。私の方も、少しは落ち着いてきた。気がする。

 再び料理をつまみはじめた先輩は、言うべきことを言ってしまった反動だろう、すっかり弛緩している。

「いろいろ考えたけど、それが今の私の全部。死ぬまで生きる。でも生きるのも死ぬのも、好きな人の近くがいい」

「……先輩らしいですね」

「ふふ、ありがと」

 屈託のない優しい笑顔。この陽だまりのように温かい笑顔も、春風のように穏やかな声も、もう数年で失われてしまうのだ。

 突然に理解してしまった。先輩は、私の前からいなくなってしまうのだ。目頭が熱くなるけれど、きっと今泣くべきなのは私ではない。

 そうして気が付いた。

 何年も会っていなかったのに、どうしようもなくこの人に左右されている。たった一人の人間の存在に、私は揺さぶられている。

 ぽっかりと空いた穴に、じんわりと温もりが広がっていく感覚に、私は心を決めた。

 そういうことなのだ。取り返しがつかない。もう、決して引き返せない。

「先輩の、お住いはどちらですか」

「今は──」

 口にした住所は私の住むアパートからは少し遠いけれど、今の職場からは然程でもない。聞けば一軒家を買ったそうだ。すごいな。

「お部屋に空きはありますか?」

「……いい、の?」

 私の質問へ答えるでもなく、和先輩は顔を曇らせる。この人でもこんな不安そうな顔をするんだと、私はひどく安心した。

「言い出したのはそっちですよ」

「そう、だけど。でも」

「先輩」

 遮ってから、どう言えばこの人は納得するだろうかと逡巡して。何よりも、私が一番したいことを伝えなきゃいけない。

「私も、先輩と一緒がいいです」

 結局、口を衝いたのはそんな言葉だった。

 やがて先輩の瞳から、堰を切ったように溢れ出てくる感情を、私はこれ以上ないほどに愛おしく思った。

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