リアとリナ
多情仏心
第1話 嘘を吐くからです。
あの日、突然始まった授業は私を吊し上げる時間だった。
「今日はリナさんについて話し合ってください」
それは予告なしのイベント。
「それではリナさんの良いところを教えてください」
小学3年の秋
担任の女性教師は声を張り言葉を響かせるとチョークで黒板を2度叩いた。
色黒な広い額には青筋が浮いていた。
私はこの教師の笑顔を知らない。
親鳥の号令で従順なヒヨドリ達が一斉にターゲットの私を注目した。
私は宿題をやらないダメな生徒で教師にいつも叱られていた。
忘れ物が多くて何度か家まで取りに帰されたこともある。
だらしなくて、授業中は上の空で、何をやらせても鈍い言動の子供だった。
みんなでする清掃は私だけ行動が遅くて、わざとノロノロ動いてサボっているのだろうと教師だけではなく同じ班の生徒にも注意されていた。
そんな雰囲気を感じていても私の言動は変われるものではなかった。
私にとって学校は家から逃れる休息の場所だったと思う。
怠惰な態度の私はクラスの真面目な生徒達から時には白い目で見られていた。
それを知っててもクラスの雰囲気を壊しているとは気づかず全く気にしてなかった。
だけど…
いきなり〝私自身〟について、と言われて何のことかわからなかった。
咎められるようなことを何もしてないのに一斉に驚かれた目で見られるのも初めてだった。
見ているみんなと同じくらい、こっちも驚いていた。
その時の自分はどんな顔をしていたのだろう?
こっちを見ていたみんなの表情は大人になった今も昨日のことのように覚えていても自分の表情は想像するしかない。
あの日のこと、その始まりのことは忘れたくても忘れられない。
何月何日のことだったかは覚えていなくても、その記憶やクラスの雰囲気は日々不意に思い起こしながら年月を積み重ね、やがて身体の1部になった。
もしかして当事者じゃなければ?
あの事実って私以外には誰の記憶にも残らない過ぎた日常の一欠片なのかも。
自分さえ忘れたら何もなかったことに出来るかもしれない。
誰1人覚えていない事実って、無かったことに出来るものなのかな?
…なんてね。
生きてきた時間の分、余計な感情を覚えても何ひとつその事実を誤魔化すなんて出来なかった。
そして過去の事実はもう動かない。
だからもっと冷静に自分の記憶を確認する。
初めて体験するように、時を戻してあの場所に帰る。
衝撃を受けた気持ちのまま。
なるべく事実を自分の感情の都合で捻じ曲げないように客観視してキープする。
そして何度も考え続ける。
あの時、何をしたら良かったのだろう?
どんな気持ちでいたらそこにいることに耐えて納得出来ただろうか?
戸惑いと悔いは幼い心のまま変わらない。
大人になって考え方が変わったとしても事実は1つ。
自分についての道徳の時間?
もしかしたら主役?
学芸会ではその他大勢の自分がいきなり祭りの神輿に乗せられる現象?
映像のように思い出すのはニヤニヤと半端な愛想笑いを浮かべ、どこに目をやったらいいのかわからず不自然に小さな体をモジモジさせて落ち着きなく見せ物になっていた自分。
「優しいです」
「絵が上手いです」
「おしゃべりしている時、楽しいです」
すぐに数人がチラホラと手を挙げて発言してくれた。
教師が強くカツカツとチョークで書いた。
『優しい』
『絵が上手い』
『楽しい』
絵が上手いと言ってくれた子は休み時間にそばに来て「すごいね!」とアニメキャラを描いている途中の絵を取り上げた。
突然のことで私が声を上げる前に、彼女は走って教卓で生徒のノートをチェックしていた教師に持って行く。
「先生見て!リナさんが描いてた絵とても上手でしょ?」
自分の手柄のように話す様子を私は離れた席で座ったまま傍観していた。
教師は差し出された絵を見る前にその子にフッと笑顔を返し、それから視線を描いた絵に移すと顔を曇らせて曖昧に2度浅く頷くだけで何も言わなかった。
絵を描いていたノートは漢字練習帳だった。
勉強している努力の跡などどこにもない私のノート。
教師はプイと顔を戻して私の方には目もくれなかった。
その子が戻って来てノートを返しながら
「先生も驚いてたよ!なんでそんなに絵が上手なの?」
とても無邪気に言うので、教師の反応はその子からはそう見えたのかもしれない。
教師のリアクションは同じなのに見る人それぞれで見解が違う?
その時の教師の印象は良くないと気づいて私に配慮してくれたその子の思いやりだったかもしれない。
その子はきっとそれを覚えていて良い方に発言してくれたのだろうか。
「他には?」
教師の掛け声に家が近所のヒロシ君が手を挙げた。
この一連の流れを繰り返し思い出すたびにその場面だけはときめいて胸がズキズキとする。
「近所の小さな子をよく世話して遊んであげてます」
小さな子とはリアちゃんのこと。
世話なんてしてなくて、5歳下の仲良しの女の子。
時々自転車でスーッとトンボのように音もなく通り過ぎるのを見かけるだけで、ヒロシ君とはまともに話したことはなかった。
リアちゃんと一緒に遊んでいたのを見られていたことをその時初めて知った。
そんな些細なことをどこかで見て知ってくれていた。
思い出しては恥ずかしくなって、そのあとでしみじみと嬉しくなる…今でも。
ヒロシ君は私の人生で唯一大好きだった男の子。
性をまだ意識しない頃に好意を持った異性。
きっと生涯そんな純粋な存在はもう現れないだろう。
ヒロシ君が手を挙げて立ち上がり、チラッとこっちを見てから前を向いて教師にゆっくり説明するように話してくれたこと、本人は忘れているだろう。
若干、心配そうな、同情的な表情で私を見たけれど気のせいかもしれない。
ヒロシ君は普段から私を『ダメなヤツだな』と言ってる顔で私を見ていたから。
でも私は1分もないその場面を思い出すその度に新鮮なときめきを覚え、その一瞬だけは幸福を感じる。
大人になった今でも。
小さい頃からヒロシ君には慣れることなく、いつもドキドキしていた。
幼なじみではなく、いつまでも遠い存在の人。
近所に住んでいて保育園から小学校まで同じクラスでずっと近くに存在していたのに話すきっかけは1度もなかった。
どんなに好意を持っていても、それを示す手段を私は知らなかった。
自分を感じ良く見せてヒロシ君に好かれようとする努力も出来なかった。
でもヒロシ君は私の何でもない日常のことを〝良いところ〟として捉えてくれた。
緊張感しかない雰囲気の教室の中、この時だけ溢れる笑顔を隠すために俯いた。
教師はヒロシ君の話を聞いて真顔でチョークを黒板に押し付けたきり何も書かない。
一瞬、こんな状況にも関わらず好きな男の子に褒められて嬉しくなっている私を見透かしてヒロシ君の意見を無視したのかも?と考えた。
でも、それはきっと内容が『優しい』の部類でもう書き出されていたからだろう。
教師はダメな私に厳しいだけで憎んでいるわけではないと信じたかった。
だけど…
突然何が始まったのかよくわからない緊張感と羞恥心でガチガチになってたのがヒロシ君のおかげでようやく少し気持ちが和らいだ時、大きな声でそれを打ちのめす言葉が聞こえた。
「では、悪いところを教えてください!」
一層、声高に張り上げた言葉は声に冷気を含み私だけではなく教室全体を凍らせた。
この教師は私の悪口を生徒全員に当人の目の前で言えと促している。
教室中の目が私を、今度は別の意味で一斉に凝視した。
その時に感じていたのは、みんなが私の悪いところを探して考えているのではなく、この恐怖のイベントの次の主役が自分になったらどうしよう?という戸惑いだったと思う。
急に始まった初めての試み、その最初の生贄が私だと、その時はみんな思っていた。
そんな状況下での主役になってしまった者の反応を次の自分の参考にしようと探っているように見えた。
これから悪口を言われる立場の人間の表情や反応に、今は言う立場のたくさんの眼がいくつも怯えていた。
子供の本能で瞬時に次は自分の番かも、いつかこんな時間が巡ってきてしまったらどうしよう?という予防接種の順番を待つソワソワした落ち着かない様子が教室を包んだ。
「どうしたのですか?発言しなさい!なぜリナさんは良いところもあるのに友達がいないのですか?」
友達が、いない?
今度は私が驚いて改めて教師の顔を見る。
まじまじと、私は教師のこめかみに浮いた血管の形状をなぞるように、目の玉がどちらにどんな速さで移動するのかを追うように長く見続けた。
教師は視線を避けるでもなく私を最初から全く見てなかった。
本当に私のことを言っているの?
問いかける勇気もないまま、この授業が始まってほとんど俯いて聞いていた私は顔を上げて教師の表情を飽きることなく追いかけて見つめ続けた。
シンと静まり返ったまま反応に戸惑う生徒達を教師はゆっくり見回していた。
教室の中でハンターのように動く獲物の反応を瞬時に見極めて当てようとしていた。
いつも怒りの感情で気の済むまで説教していた教師はこの日、生徒達から何か言葉を引き出そうして強引な誘導と目に見えない圧をかけた。
でも誰も手を挙げない。
時折チラッとこちらを横目で見ては顔を伏せる生徒の様子を感じていた。
陰口ならすぐ言えても堂々と本人の前で言うのは勇気のいることだと思う。
私は友達がいないと教師に断言されたけど普段おしゃべりしている同級生の誰かが反論してくれないかと縋るように願った。
だけど、普段から高圧に正義の指導をする大人を前にしてまだ心が幼い人間が「先生、なぜそんなことを聞くのですか?」とか「私はリナさんと友達です」と言える勇気はない。
その独特な雰囲気の中で自分だって発言する覚悟がないと思うと頼ることの方が間違いだと気づく。
好きか嫌いかに関わらず本人やクラス全員の前では言いにくいことを言わなければならない戸惑いと教師の言わせようとする圧が拮抗しているのか、しばらくは押し黙り時が止まったように重苦しい空気になっていた。
まだ小学3年生には荷が重い状況だったかもしれない。
「はい!」
沈黙の中、1人が手を挙げた。
斜め前の席、時々一緒に下校する女子がスッと立ち上がった。
無表情で真っ直ぐ前を向いている、その横顔を見て嫌な予感がした。
「はい、どうぞカエデさん」
彼女は優等生で教師のお気に入り、誰もが知っていた。
教師はこの日初めて柔らかい表情になり優しい眼差しを彼女に向けながら大きく頷いた。
それが合図のように軽く息を吸い大きくハッキリと言った。
「リナさんは、嘘を吐くからです」
「そうです!いいですか、みなさんよく聞きなさい」
教師は突然お芝居のクライマックスのように身振りを大きくして足を開いて踏ん張ると黒板に向きチョークでガツンガツンと音を立てて太く強く大きく『うそつき』と書いた。
それからまた生徒達の方を向き、ずっと叫ぶような声で何か言っていた。
私の耳には最後の言葉だけかろうじて聞こえ、ようやく理解した。
なぜなら、その時初めて教師はこちらに顔を向け睨んでいたから。
視界に入れるのは嫌だけど仕方がないと言っている表情で。
「わかりましたね!もう嘘を吐いてはいけませんよ!」
どう返事をしたのかは覚えていない。
その部分をどうにか思い起こそうとしても記憶がない。
ただ、ずっとみんなの視線が痛かったので、最初と変わらず、ヘラヘラとした笑顔を見せていた気がする。
黒板の方は1度見ただけだったので、私はずっとどこに目を向けていたのかな?
思い出そうとしても、どうしてもそのところだけ、わからない。
覚えていない、のではなく、わからない。
確かにあった事実なのだから必ず思い出せるはずだと何度もその場面を振り返ってみてもいつも同じ場面で空白は空白のままだった。
あの時間は何だったのだろう?
教師から『嘘吐き』のレッテルを貼られたにも関わらずクラスのみんなの態度はその後、何も変わらなかった。
同情されてたのかな?
誰1人まるで何事もなかったように振り返って話題にすることもしなかった。
だから普通にしていられた。
何も変わらずその後も学校へ行くことが出来た。
だけど時々、学校をサボるクセがついたのはこれ以降だったと思う。
時々、手足、目、頭の中、各パーツがその場面を思い出すと動けなくなる。
自然と唇を噛み締めている。
心臓が暴れて痛い。
それはどれほどの時間が経っても慣れることのない緊張感だった。
本当は忘れたくて、自分から誰かに話して共有することもなかった。
だから遂に誰にも聞けなかった、あの授業ってなんだったのだろう?なんて。
ちょっとだけ思った。
「リナさんは嘘吐きじゃない!」
その後でもいい、そう言ってくれる人がいたら…と。
でもあの時みんなは、それどころじゃなかったのだ。
次は自分かもしれない、と。
でもその後、その教室にそんな道徳の時間が来ることは1度もなかった。
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