天樹から

爆裂五郎

土蔵にて

 己は疲れていた。それは常に、そして明々白々な事象なのだ。

世にはまるで規範であるかのように、疲れた、と口にする者共の多いことよ。

それは職務に対してからか、家庭の苦悩からか、蓋し大衆とはそうであろう。

だが己からすれば、誰からも共感される其の感情を得られることは、羨望するべき儀であるからして。

其れらを己は余りに勢い更に余って、下らぬと一蹴してしまうものだ。

左様なら其方は如何程の窮愁を抱えておられるかと、愚民は己に問う。

宛ら愚問である。何もない無であるからこその、疲れなのだ。


 物心が付いた頃には神童と持て囃され、其れは学童の時分まで続いた。

社会に出れば傑物として闊歩が可能だと、教師と持て囃される痴人共に鼓舞されたものだ。

己は期待していた。きっと己が統べるに相応しい領域が待ち受けているのだと。

しかしだ、蓋を開けてみればどうだ。中身が一つたりとも在りはしないではないか。

歯車という言の葉で惑わす法螺吹き共が、百鬼夜行の様でのさばっている。

其の界隈で己に何を成せと申すのやら。

己が加入したのは其折生国で最も力のある組織だったらしいが、半月で去った。

そして今に至ると、そういう訳だ。


因みに馬齢は知命を迎えて間もない。

知命とは、人は其の年になって自らの使命を知る、とのことだそうだ。

成る程、全く以て然るべきだと己は痛感している。

立年も不惑も経験出来ずにいる己には荒唐無稽も同然であるのだ。

其れは要すると、己が人の世から隔絶されていると看破したのと同義だ。

やれやれ、伝説の偉人には恐れ入る。何千年もの先の矮小な生物の生涯すら見通せるとは。


兎にも角にも、傘寿である父殿には頭が上がらぬよ。

未だ魑魅魍魎の集う世間様に身を置き、宛行扶持を得ているのだから。

母君も養生中の身ながら、よくよく己の世話をしてくれている。

まだまだ家事労働は早いと己にきつく言い付けながら、彼方此方走り回るのだ。

どうも二人は己を出しに使い、勤仕を続けたい様子だ。

親の望みを叶え続ける己は、嘸かし孝行者だと各方面から賞賛されることであろう。



 さて、この暗がりにある書斎で物思いに耽るのも飽きた。

月課である天樹の下での瞑想に向かうこととしよう。

己は机上にある蝋燭を手繰り寄せ、その灯火を手で風を送り消した。

以前は息を吹き掛けて灯火を消していたものなのに、衰えとは哀れなものだ。


月明かりが恋しい。

己は昨日から着用している寝巻を替え、嘗ての出先用の装束を身に纏った。

そろそろだ。眷属が寝静まる刻限は古来より常々決まっている。

己は玄関の引き戸をそっと開け、音が漏れぬよう慎重に外界へと飛び出した。



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