バロメッツの森で

エビハラ

第1話

 森に人を立ち入らせてはならない。

 地に屍をうずめてはならない。

 先生は、僕に何度もそう教えた。

 古くから伝わる掟なのだという。僕は先生に言われた通り、招かれざる者の侵入に備えた。

 里から遠く離れたこの森を訪れる人なんて滅多に居なかったのだけれど。

 

 森は霊峰の山麓にひっそりと佇んでいた。尻窄んだ地形の岩肌に囲まれていて、どこか冷んやりと湿った薄暗闇をいつも漂わせていた。

 僕と先生は森の入り口に住んでいた。

 正確に言えば、森と平野の境界を広く見渡せる場所に建てられた小さな家に、だ。

 僕は毎日のように森を眺めた。

 森は季節ごとに表情を変えた。春には花が芽吹き、夏には葉が青く繁り、秋になればそれらが鮮やかに色づいた。暮らしは常に森と共にあり、それが自然だった。だから僕は、先生と一緒に森を守りながら暮らすことに何の抵抗も無かったし、疑問も抱いていなかった。

 先生の名はマリオンといった。

 先生は少し痩せていて背が高く、クセのある赤毛を背中の位置まで伸ばしていた。最近は髪の生え際に白髪がチラホラと見え始めていて、よくその事を気にしていた。


「ねぇ、これ目立つかなぁ」


 鏡の前に座って髪をとかした後、先生は決まって僕に尋ねた。


「別に変じゃないと思うよ」


「そう? 本当に?」


「本当。それに、ここには先生と僕しかいないじゃない。気にする人はいないよ」


「そっか。そうだよね」


 そう言って先生は微笑んだ。

 先生の役目は森を守ることだった。

 人の侵入を防ぎ、森の動植物が病に冒されていないかを日々調査を行う。

 先生は朝の早い時間から寝床を出て、森へ向かう身支度を始める。その物音で目覚める僕も、眠たい眼を擦りながら朝の支度を手伝った。

 僕のやり方はこうだ。まず、昨晩の火種の残っている暖炉の木炭に空気を吹き込み、炎が大きくなったら水の入ったケトルを火の上に固定する。沸騰を待つ間に硬いパンとチーズを切り分け、これも少し炙る。乾燥させたハーブを混ぜ合わせたものをポットに数杯入れ、その上からお湯を注ぎ込んで、特製のハーブティーをいれる。先生が出かける準備を終える頃には朝食が出来上がっている、という寸法だ。


「トム、今日は何をするの?」


 森に出る前、先生はいつも僕に尋ねた。

 二人暮らし。僕のやるべき仕事は少なくない。何をやるのか、いつ行うのか、その裁量は僕に委ねられていた。自分の考えで行動できるようにと、先生が定めたのだ。


「サトイモの芽出しの準備をするよ。暖かくなってきたし、そろそろだと思うんだ。ドリーの毛刈りもしてあげたいけど、時間次第かなぁ」


「うん、いいんじゃない。今日の夕食は私が作るよ。材料だけまとめておいて」


「わかった。気を付けてね」


 僕がそう言って手を掲げると、先生はそれに応えるように大きく手を振った。そして朝の薄靄が漂う森の方へと歩いていく。僕は欠伸を抑えながらその背中を見送る。

 森に関わる仕事は、まだ任せてもらったことがない。けれど僕は別に焦ってはいなかった。一つずつだ。一つずつ覚えていけばいい。先生はそう言った。日々の仕事を身に付けていく中で、きっとそれが一番確かなやり方なのだろうと僕も思っていた。

 

 家の周りには畑があった。なるべく沢山の種類の作物を育てたかったので、僕は畑をいくつかに分け、区画ごとに異なる種を植えていた。

 昨年の秋、僕は畑から少し離れた一画にサトイモをいくつか埋めた。越冬させ、春に種イモとして使うためだ。

 サトイモは可食部位である根の部分がそのまま種の役割を果たす。作物の採れない冬に保存が効く貴重な栄養源であると同時に、次の年の礎にもなる訳だ。

 掘り出した種イモは、はじめから畑に埋めてはいけない。地温が上がらないと、中々芽を出さないからだ。僕は土を入れた大きめの桶に種イモを等間隔に埋め、軽く土を被せた。発芽を妨げないように穴を開けた黒い布をその上から更に被せ、土の温度が保たれるように工夫する。

 こうしておけば、一か月程で発芽する。

 僕は移植ゴテを持った腕で額の汗を拭った。立ち上がって空を仰ぐと、燦々と陽光が差している。午後になれば西側にある霊峰に陽が隠れて辺りは薄暗くなるのだが、午前中はまだ明るい。というか、日が照りすぎて暑いぐらいだ。


「昼夜でこうも気温が違うと困っちゃうよ」


 僕がそう呟くと、傍らで草を食んでいたドリーがめええ、と鳴いた。冬の間に蓄えた柔らかい毛がモコモコと膨らんでいる。暑くなれば上着を脱げばいい僕らと違い、ドリーの毛は簡単には刈れないし、刈ってしまえば再び身につける事はできないのが難点だ。


「暑いよね。でも、そのモコモコが無くなっちゃったら夜は寒いぞぉ」


 首の辺りの膨らんだ毛をクシクシと触るとドリーは気持ちよさそうに目を細めた。

 雌羊のドリーは家族であるのと同時に、貴重な食材の生産者でもある。ドリーの乳から絞ったミルクは栄養がたっぷりと詰まっていて、保存用に発酵させた羊乳のチーズもまた、舌の上でとろけるような味わいだった。

 秋になる頃には種芋から芽を出したサトイモが実る。昨年の冬、先生は蒸したサトイモにドリーのチーズをたっぷりと乗せ、それをこんがりと焼き上げた料理を作った。それは信じられない程に美味しくて、僕は先生に何度も同じものを作ってもらった。思い出すだけで涎が垂れてくるようなあの料理を脳裏に思い浮かべ、僕はせっせと手を動かした。この仕事の先にあの食卓があると思えば、こんな作業は何の苦労でもない。汗を滴らせる僕を尻目に、日陰に逃げ込んでいたドリーがめええと鳴いた。

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