第45話 ちょっとずつだよ
そのまま海岸線から少し離れた駐車場まで歩いて、すみれはバイクを置いた。
松永先生もそこまで車を移動させ、私達は休憩所となっている元観光センターに身を寄せる。台風の接近で他に人はおらず、外の雨足はますます強まっていた。
「本当に勝手なことばかりして。これだけの人を心配させてどういうつもり」
「……ごめんなさい」
叔母さんから厳しい視線を浴びせられ、すみれは小さくなって頭を下げる。
松永先生がすみれの叔母さんに声をかけた。
「どうしましょう。一度学校に戻りますか?」
「いいえ。ずぶ濡れのこの娘には悪いけど、正午にはホテルに戻ってオンライン会議に出ないといけないんです。時間がないので、三者面談はこの場でお願いできますか」
「こちらは構いませんが……」
担任の了承を得ると、すみれの叔母さんは姪に向かって諭すような口調で言った。
「それで、あなたはどうしたいの? この数か月、好きにさせてみたけど、一人で生きるのはそんなに簡単じゃないってわかったでしょう。大人しくアメリカに来なさい」
「……」
すみれが黙って顔を上げる。横顔には緊張感が滲んでおり、自然と私の心臓も早鐘を打つ。
今日、退学の意志を告げると、すみれはバーガーショップや江ノ島で言っていた。
いや、違う。その後に彼女は私に会いに来た。あれはもしかして心変わりを伝えに来たのではないだろうか。
すみれは、アメリカに――
「あたしは――」
「すみれっ」
私は思わず横から口を挟んだ。
その場の全員の注目が集まる中、震え出しそうな足をなんとか踏ん張る。
「あ、あの、私が口を出せる立場にないのはわかってる。でも、一つだけ言いたくて。最初は委員長として会いに行ったけど、今はそうじゃなくて。面白い経験が色々できたし、私の周りの人達も紹介したいし、その、なんというか……」
ああ、駄目だ。気持ちが空回りして、自分でも何を喋っているのかわからない。言っていることも全然一つじゃない。
一つ。そう、私は一つすみれに伝えなければならないことがある。
江ノ島の波打ち際で、なんとなく恥ずかしくて返せなかった言葉。
「私は、あなたに会えて良かった」
「花守。今は三者面談の場だ。わきまえなさい」
「あ、す、すいません……」
松永先生の一言に、私は肩を落とす。
すみれはそんな私の顔をじっと見た後、再び叔母さんに視線を移した。
そして、はっきりした口調で言った。
「あたしは……もう少し、ここで学校を続けたい」
「……」
叔母さんの両眼が見開かれる。
松永先生の表情は変わらないが、わずかに口角が上がった気がした。
すみれは叔母さんをまっすぐ見つめたまま口を開いた。
「母さんが……あたしのせいで死んだのを知って、あたしはもう誰かに借りを作りたくなかった。婆ちゃんとの生活は楽しかったけど、世話になりっぱなしにならないように、手伝いも沢山したし、歌も頑張ったし、期待に応えて高校にも合格した。でも、婆ちゃんが死んでなんだか気が抜けて……後は一人で好きにやろうと思ったけど、何やってもどっか空しくて。あたしは世界が滅びるまで、ずっと借りを抱えて生きていくんだって」
そこで一旦言葉を止め、すみれは意を決したように言った。
「友達、ができたんだ」
「……」
私は息を呑んで、彼女の横顔を見つめる。
すみれは照れ隠しなのか、少し俯いてぼりぼりと頭をかいた。
「いや、友達って言っていいのかよくわかんないけど……あたしが溺れたと勘違いして、自分が溺れそうになるような奴で……貸しとか借りとか、そういうの簡単に飛び越えてくる奴がいるんだって」
江ノ島の海での出来事だ。あの時、すみれはやけに驚いた顔をしていた。
「それでちょっと思ったんだ。誰かに頼らないって口実で、あたしは逃げてたのかもって。前は婆ちゃんのために高校続けるか迷ってたけど、今は、その、もうちょっと色んなことに向き合ってみようと、思う……自分で」
すみれは一瞬だけ横目で私を見て、叔母さんに深々と頭を下げる。
「だから、お願いします。卒業したら働いて返すから、学費と生活費を下さい」
絶句したままの叔母に、松永先生が静かに言った。
「……だそうです」
「あ、あのっ、私からもお願いしますっ。私達が責任を持って預かります」
慌てて頭を下げてから、自分が変なことを言ったことに気がつく。
「あたしは物か」
すみれの突っ込みの間も、彼女の叔母さんはしばらく固まっていたが、やがて額に手を当て深い溜め息をついた。
「一人で生きるって豪語したと思ったら、今度はお金だけ下さいって……本当に、勝手なことばかり……」
そして、少し目を細めて、すみれをどこか懐かしそうに眺める。
「あなたのそういうところ……姉さんにそっくりだわ」
今度はすみれが両目を見開く番だった。
「妊娠がわかったのはもう世の中が大変な時で、こんな時代だし、身体も弱いし、子供を産むのは得策じゃないって私は何度も姉さんに言ったわ。でも、この子は産まれようとしてやってきたんだって。この子に会うために自分の人生はあったんだって言って。昔から本当に人の話を聞かない人だったのよ。結局……会えたのはわずかな時間だったけど」
すみれの叔母さんは何かを堪えるように唇を引き結ぶと、おもむろに右手を伸ばして、すみれの頬に触れた。
「……馬鹿ね。姉さんは、あなたに見返りなんて求めていなかった」
「……」
叔母さんはやがてすみれの頬から手を離すと、目尻を何度か拭って私と松永先生を見た。
「じゃあ、話は終わりね。身寄りのない場所に一人残しておくのは心配だったけど、すぐそばにあなたのことを気にかけてくれる人がいることがわかって安心したわ」
松永先生がわずかに背筋を伸ばして言った。
「卒業まで当校で責任を持って預かります」
すみれの叔母さんは深々と頭を下げて、「宜しくお願いします」と答えた。
そして、姪をじろりと睨む。
「それと、すみれ。お金の振り込みの件は後で連絡するから、メールはちゃんと定期的に確認しなさい。あとスマホの一つくらい持っておくこと」
「あ、はい……」
叔母さんはそれからどこかへ電話をかけて、松永先生に言った。
「タクシーを呼んでホテルに戻るので、私はここで」
「わかりました。生徒達は私の車で送りましょう」
嵐の中の三者面談はこれで終わった。
急いで出てきたため、傘はもともと松永先生の車に置いていた二本しかなく、松永先生と進藤先生で一本、私とすみれで一本を使い、駐車場まで戻ることになった。
風で傘が飛ばされないように注意しながら、私達は風雨の中に飛び出す。
二人の生徒が先に行き、少し距離を開けて、二人の教師が一本の傘で続いた。
化学教師の進藤香が言う。
「私達の教員生活もあと三年。あの娘達の卒業と一緒ね」
「ああ」
「誰かの人生に少しでも彩を与えられたなら、人の一生に十分に意味はある……か」
「なんだ?」
「みのりが車で言った言葉よ。まるで教師である自分に言い聞かせているみたいね」
香はそう言って、隣の同僚教師に身を寄せる。
「私は、あなたの人生に少しは彩を与えられているかしら?」
松永みのりは前で寄り添って歩く二人の生徒の背中を見つめた後、かすかに微笑んで頷いた。
+++
先生達の前を行く私は、傘の柄を必死に掴みながら、横を歩くすみれに話しかけた。
「叔母さん、昼から会議って大変そうだね」
「ま、忙しいみたいだよ。明日にはアメリカに戻るみたいだし」
「アメリカで何やってるの?」
「んー、何かの研究者。今はなんかイブ計画に参加してるらしいけど」
「ええ~っ!」
予想だにしない答えが戻ってきて、私は雨の中で大声を上げる。
まただ。また想像もしない新しいプロフィールが追加された。
イブ計画の関係者ということは、世界有数の研究者ということになる。
「そんなすごい人だったの。失礼な態度とっちゃったかも……」
そういえば行きの車の中で、子供達に明るい未来を提示できていない責任がある、と言っていた。あれは研究者としての立場から出た台詞だったのか。
「もう、ひどいよ。秘密はないって言った癖に」
「いや、ないって。別に秘密にしてた訳でもねーし」
そう答えるすみれの表情はどこか浮かない。
「……どうしたの?」
「あぁ、いや、バイクのことどうすっかなと思って」
「故障してるんだよね? 駐車場に置いといて後で取りに来るしかないんじゃない?」
「そうだけど、修理代幾らすんのかなって。しばらくはもやし生活だな」
「うちに食べにくる? お母さんも反対はしないと思うよ」
「そこまで世話になれない」
「さっき貸し借りを気にしないようにするって言ったじゃない」
「ちょっとずつだよ、ちょっとずつ」
「そうだね……少しずつ」
私はすみれの横顔を見つめる。
耳のすぐそばで風が悲鳴を上げ、雨はほとんど真横から降ってくる。以前部長が言っていた過酷な環境による吊り橋効果なのか、こんな状況なのに心の中になんとも言えない不思議な浮遊感を覚える。
これが親愛の情なのか、そうではない何かなのか、わからない。
この名前のない感情も、まだ見ぬ世の中の色々な出来事も、私はまだ知らないことばかりだ。
だから、今は少しでも知っていきたいと思う。
人類の歴史は残り少なくとも、私達にはまだ幾ばくかの時間が残されているのだから。
すみれが一歩を踏み出して、私が一歩を進める。
私が一歩を歩けば、すみれが同じだけ前進する。
少しずつ、少しずつ、進めばいい。
それは、人類にとっては小さな一歩に過ぎないけれど、私にとってはきっと、とても大きな一歩だった。
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