第40話 ……ないで

 校舎から慌ただしく飛び出すと、天蓋を覆う分厚い灰色の雲から、ぱらぱらと水滴が落ち始めていた。制服の裾をはためかせる風に、雨と潮の香りが含まれている。


「つぼみっ」 

「葵、みんな、どうして?」


 下駄箱を出たところに、報道部のメンバーがいた。部長がやれやれと肩をすくめる。


「待ってたのさ。こんな天気に部員一人残して先に帰る訳にはいかないだろ」

「すいません、大丈夫です。私ちょっとクラスメイトを迎えに行ってきます」

「どういうこと? もう終業式終わったじゃん」


 水野先輩が訝しげに眉をひそめた横で、葵が私をじっと見て言った。  


「もしかして、浅川さん?」

「うん、連絡がつかないみたいだから」

「でも、危ないよ」

「大丈夫、先生もいるし。多分、私じゃないとわからないから」


 私がそう言うと同時に、校舎の前で赤いセダンが急停止した。


「行くぞ、花守っ」

「はいっ」


 運転席から松永先生が顔を出している。助手席にはすみれの叔母さんの姿もあった。


 駆け出そうとした私の腕が、後ろから強く掴まれる。


「待って」


 立ち止まって振り返ると、葵が今にも泣き出しそうな顔で唇をゆがめていた。


「どうしたの、葵?」

「……ないで」

「ん?」


 風がごうっと唸り、振り始めた雨がまばらに大地を叩いている。


 そのせいで葵の言葉はよく聞こえなかった。


 これまであまり見たことのない表情にどう声をかけていいかわからないまま、葵としばらく見つめ合う。


 やがて、葵は何かを惜しむように、私の手首から指を一本一本離し、いつもの柔かい笑顔で言った。


「ううん、何でもない。気をつけてって言いたかった」

「そっか、葵も気をつけてね」

「夏休み、取材旅行いこうね」

「わかった。楽しみにしてる」


 私は今度こそ雨の中に飛び出し、松永先生の車の後部座席に乗り込んだ。


「あれ?」


 座席の奥側には、報道部顧問の進藤先生も座っている。


「どうして先生が?」

「ま、一応報道部の顧問ですからね。部員の安全には責任があるのよ」

「私だけでは信用できないそうだ」


 運転席の松永先生が不満そうに言ったが、進藤先生はどこ吹く風で応じた。


「何かあった時のために、大人は多いほうがいいでしょう」

「ふん。じゃあ、行くぞ」


 松永先生がアクセルを踏み込み、座席がぶるんと振動する。


 私と二人の教師、そしてすみれの叔母さんを乗せた車は、水煙を巻きあげ、雨の中を勢いよく走り出した。


  +++


 校門を猛スピードで出ていく車のテールランプを見送った報道部部長の大橋は、力なく立ちすくんでいる一年生の背中に声をかけた。


「榎本君、そこは雨が当たるぞ。中に戻りたまえ」


 しかし、部員の榎本葵はそれには答えず、雨に煙る校門に目を向けている。


「ねえ、部長……部長の取材テーマは恋愛を知る、ですよね」

「ああ、そうだよ」

「私……多分……」

「多分?」


 聞き返すと、視線を遠くに向けたまま、葵はぽつりと言った。


「…………多分、知ってました……ずっと、前から」

「え、そうなの? どゆこと?」


 副部長の水野がきょとんとする脇で、大橋はかすかに口の端を上げた。


「そうか…………羨ましいよ」


 大橋はこの湿気の中でも真っすぐに伸びた艶のある黒髪をぼりぼりと掻く。


「海老沢君のキャラクター診断はやはりいい加減だな。何が重要なシーンで現れて、主人公を導くという重要な役割を果たす、だ。肝心な時に私は少しも役に立たない」


 そして、下駄箱に背中を向けたままの葵の肩に、優しく手を置いた。


「とりあえず、今度飲みにでも行くか」

「馬鹿」


 水野の突っ込みに、葵がふっと息を漏らす。


 三人はそのまましばらく、天の涙のように地上に降り注ぐ雨を眺めていた。

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