第26話 言われなくても頑張るつもり

 それから一週間、私はどこかぼんやり気持ちで日々を過ごした。


 すみれが学校を辞める。


 それが彼女の本気の選択なら、私に止める権利はない。でも、もしかしたら言葉とは裏腹に、彼女はお婆さんとの約束を果たすために本当は高校に行きたいのではないか、という気もしたのだ。


 ただ連絡先を聞いていないため、真意を尋ねることもできない。あの娘はそもそもスマホを持っていないし、パソコンはたまにしか開かないらしいので、たとえ彼女のメールアドレスを知っていたとしても連絡をつけるのは容易ではない。この現代においてまるで孤島に住んでいるような生活だ。


 一応、家は知っているが、いきなり訪ねるのも図々しい気がして躊躇してしまう。


 どう過ごしているのか気を揉んでいたが、極めて現実的な問題が、ようやく私を目の前の生活へと引き戻した。


 期末テストだ。


「暑……」


 自室の机に向かった私は、髪を後ろで一つに束ねて呟いた。


 七月十日の夜。著しい人口減少で、地球温暖化には歯止めがかかりつつある。ただ、夏はいつの時代であっても暑い。


 長年愛用してきた部屋のエアコンが昨日突然寿命を迎え、室内には熱気が澱のように溜まっていた。


 今の時代、人手不足もあって修理には最低でも二、三か月はかかる。母と相談して新しく買うことにしたが、結局取り外しや設置工事に同じくらいの時間かかるので、元気なエアコンに再会できるのは、外に秋風が吹いている頃だろう。


「駄目だ」


 私は頭を振って立ち上がった。窓を全開にして耐えていたが、集中困難なレベルで暑い。


 階下に降りて、リビングでテレビを見ている母に尋ねた。


「お母さん、扇風機あったよね」

「だから、ここで勉強しなさいって言ったじゃない。お姉ちゃんはいつもそうしてたわよ」

「……いいの。部屋のほうが集中できるから」

「お父さんの部屋の押し入れに片付けたままだと思うけど」

「……」 


 私は口を閉じて母を見つめた。


「どこにあるかわからないから取ってきて」

「今いいところなのよ。お父さんの部屋の押し入れなんて一つしかないんだから、行けばわかるわよ」


 母の目はテレビドラマに釘付けになっている。


 終の棲家として高級老人ホームに入った貴婦人達によるドロドロ劇で、何が面白いかよくわからないが、中高年の間では大人気らしい。まだドラマはしばらく続きそうなので、私は諦めて廊下に出た。


 灼熱地獄の部屋にこのまま戻る訳にもいかず、廊下の突き当りに向かう。


 侵入を拒むかのようにぴたりと閉じたドアの向こうは、父が生前使っていた部屋だ。


 多少の緊張感を覚えながら、私はドアノブをひねる。


 電気をつけると、木製の本棚と簡素な作業用のデスクが蛍光灯の明かりに浮かび上がった。卓上にはデスクトップのパソコンとディスプレイが置いてある。かつての最新版も今では立派な骨董品だ。なるべく当時のままの姿にしておきたいという母の意向で、時々掃除をする以外はそのままにしているそうだ。


 押し入れを開くと、古いタンスを開けたような据えた香りが鼻腔をついた。無造作に奥に詰め込まれていた年代物の扇風機を無理やり引き出し、私は逃げるように部屋を出る。手の平にはじっとり汗が浮かんでいた。


 私はここが苦手だった。


 母にとっては大事な場所。姉もよくこの部屋に出入りして仕事中の父の邪魔をしていたと聞く。


 しかし、生まれた時から男のいない世界にいる私にとっては、父はどこか架空めいた存在だった。小さい頃は無邪気にここに入って本を漁ったりパソコンを勝手に触ったりしていたが、今ここに来ると、もういないはずの父の確かな息遣いを感じてなんだか眩暈がしてくる。


「つぼみ。そういえば、もうすぐ期末試験じゃない?」


 扇風機を抱えて居間のそばを通ると、母がテレビに目を向けたまま言った。


「そうだけど」

「いつの時代も学生は大変よねぇ。調子はどうなの?」

「んー、今のところ及第点かな」

「あんたって本当、昔の政治家みたいな答え方するわよねぇ」 


 頑張ってね、という母の声を背に、私は階段を昇る。


 二階に渦巻く熱を肌に感じながら、言われなくても頑張るつもり、と小さく答えた。

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