第7話 青春するのも一苦労か

「おかえり、遅かったわね」


 自宅に戻ると、母が赤いエプロン姿で出迎えてくれた。


「うん、部活でちょっとね」


 言いながら靴を脱ぐと、そのすぐ隣に私と同じサイズの、私のものではない靴が乱雑に脱ぎ捨ててあることに気づく。


「お姉ちゃん、帰ってきてるの?」

「ああ、咲? レポートが忙しくて自炊が面倒になってきたって。ほんとにあの子はねぇ」


 溜め息をつきながらも、母は嬉しそうだ。


 リビングに入ると、普段は都内で一人暮らしをしている大学生の姉が、すっかりくつろいだ装いでソファに寝そべっていた。姉は右頬をソファにぴったりとつけたまま、ゆらゆらと手を振った。


「やっほー、つぼみ。高校はどう?」

「うん、まあまあ」

「まあまあって、情報量少なくない? 勉強は頑張ってんの?」

「ぼちぼちやってるよ」

「まあまあとかぼちぼちとか、相変わらず昔の政治家みたいな物言いだねぇ。高校生活なんてあっという間なんだから、しっかり青春しなよ」

「うん、善処する」

「政治家!」  


 姉は大袈裟に言うと、のそりと起き上がって大きく伸びをした。


「ま……こんな時代じゃ、青春するのも一苦労か」


 彼女の前の机には、缶ビールと空のグラス、それと枝豆入りの小皿が置いてある。


 レポートはやらなくていいのだろうか。


 台所に戻った母が、姉の姿態を見て苦笑いした。


「年頃の娘が夕飯前に枝豆とビールで晩酌だなんて、母としては複雑だわ」

「立派に育てて頂いて、お母様には感謝感激、雨あられでございます」


 姉は母を拝むように両手を合わせた。別に酔っている訳ではなく、これが彼女の素である。


 母は呆れたように笑って、スーパーで買ってきた野菜を洗い始めた。


「そういえば、お父さんもそのビール好きだったのよ」

「そうだったっけ?」 

「忘れたの? いっつも晩酌するお父さんの膝の上に座ってたじゃない」

「さすがに銘柄までは覚えてないよ」

「知ってて選んだのかと思ったわ。血は争えないわねぇ」


 二人のやり取りを横目で眺めながら、私は二階に向かう階段に足をかけた。


「つぼみ」


 姉に呼び止められて振り返る。


「せっかく帰ってきたからさ。週末お父さんのお墓参り行こうと思ってるけど、あんたはどうする?」

「ごめん。今週はちょっと用事があるから、また今度行くね」


 私はそう答えて、薄暗い階段を上った。


 自室に入って、明かりをつける。ここはまだ電気が通っているが、国は人口減少に合わせて計画的に発電量を減らしているらしい。火力発電が減少し、二酸化炭素の排出量がこの十七年で六十八%削減されたというニュースを見たことがある。


 人類が衰退する代わりに、スモッグは消え、海の透明度は増し、温暖化や気候変動の進行は目に見えて遅れ始めた。隕石が連れてきた未知の病原体は、人類にとって悪魔でも、地球にとっては救世主だったのかもしれない。


「はー、なんか疲れた……」


 私は制服姿のままベッドに仰向けに倒れこんだ。

 しばらくぼうっと天井を眺めた後、放り出した鞄を手元に引き寄せる。


 緩慢な動きで、中から数冊の漫画本を取り出した。  


『誘惑★アフタースクール』というタイトルを確認し、ぱらぱらとめくってみる。突如恋愛を知りたいと言い出した報道部の大橋部長から、課題図書として渡されたものだ。内容は高校生の真面目な少女が、学校に来ない不良の男子生徒と出会い、恋愛とやらに陥る話のようだ。


「うぅん……」


 頁をめくりながら、私は小さく唸った。


 よくわからない。


 まずもって学校にこれだけ男という生き物がいる時点で現実感がない。それに登場する男達は全員やたらスタイルがいいし、ほとんど女みたいな顔のキャラがいたりするし、写真や動画で見た男と随分違う気がする。


 その上、主人公の相手ときたら、『お前、勉強できる癖に馬鹿だな』と、初対面で失礼な物言いをしてくるし、急に壁にドンと手をついて威圧してくる。直後に主人公の鼓動が早くなる描写があるのだが、恐怖のせいで心拍数が上がったのか。


「駄目だ。ちょっと休憩……」


 私は大きく息を吐いて、漫画をベッド脇に置いた。


 部屋が静寂に包まれると、壁掛け時計の秒針の音がやけに大きく響いてきた。時はゆっくりと、しかし確実に、ただ前にだけ進む。


 階下から母と姉の笑い声が聞こえてきて、私はごろんと寝返りを打った。


 姉と私は五歳離れている。顔立ちはよく似ていると言われるが、性格は真反対だ。何事にもおおざっぱで楽観的な姉と比べて、私は理屈っぽくて考えすぎるところがある。

 

 でも、性格以上にもっと大きな違いがある。


 私は父親を直接見たことがない。


 その腕に抱かれたこともないし、晩酌をする父の膝に座ったこともない。


 だけど、姉は父を知っているのだ。

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