第3話 私は恋愛を全く知らない

 一日の終わりを告げるチャイムが校舎に鳴り響くと、電池切れのロボットと化していた生徒達は、途端に魂を取り戻したように慌ただしく帰り支度を始める。


 隣席の葵が立ち上がり、日向に寝そべっていた猫のごとく大きく伸びをしながら言った。


「つぼみ。今日も部活?」

「うん。葵もだよね?」

「私は早く終わると思う。後でそっちに顔出すから一緒に帰ろ」

「おっけー、頑張ってね」

「あいあい~」


 バドミントンラケットを担いだ幼馴染でもある級友と別れの挨拶を交わし、私は部活棟へと向かった。


 今年創立百周年を迎える神奈川県は鎌倉市に位置する本校だが、元々は共学だったと聞いている。男子のいない今は教室が大量に余っており、一部が部活棟として使われていた。


「お疲れ様です」


 茜色の夕陽が差し込む、どことなくすえた匂いが漂う一室に私は足を踏み入れた。


 壁際のキャビネットには分厚い本がこれでもかと積めこまれ、そのジャンルは人文系から物理化学に生命科学、天文学に歴史物まで多岐に渡っている。


 部屋の中には既に私以外の三人の部員がいた。


「おお、花守君。君を待っていた。ちょっと聞いてくれ」


 そのうち一人、ノートパソコンを前にした黒縁眼鏡の女が私を見て言った。


「どうしたんですか、大橋部長」


 漆を塗ったような艶のある直毛。長身で鋭い眼光を湛えた彼女は、少しずり下がった眼鏡の端を持ち上げる。


「話というのは報道部としての次の取材テーマのことだ」


 報道部、というのが私の所属する部活の名だ。


 人口減少もあって、今でこそ部員五名の小規模世帯だが、元々は本校の伝統ある部活で、卒業生には著名なジャーナリストも多数いたという。定期的に発行している会報やメーリングリストでは、時流に乗ったテーマを時に平易に、時に舌鋒鋭く解説し、いまだに校内外に熱心な読者を抱えている。


 その第八十六代目となる部長が悔しそうに歯ぎしりした。 


「私はこれまで大事なテーマを見落としていたんだ」

「大事なテーマですか?」 

「ああ、私としたことがなんたる失態」


 部長は、握りこぶしを作って机を叩いた。


 部屋の隅で漫画本を読んでいた猫背の少女が、びくんと体を震わせる。目元が隠れそうなほど長い前髪をした彼女は、同学年の海老沢あやめという娘で、部長とは正反対に小柄でいつもおどおどしている。


「ちょっと、菊子。今ので机のお茶がこぼれちゃったじゃん」


 スマホを手にしたセミロングの明るい茶髪の女の子が、部長に非難の言葉をぶつけた。


 副部長の水野椿先輩だ。


 水野先輩は少し吊り上がった気の強そうな瞳で大橋部長を睨みつけるが、部長は気にも留めず、今にも雪崩を起こしそうな本棚を見渡した。


「私の根源的なテーマはこんな時代にいかに明るい未来を作るかだ。そのために数多くの記事や文献、論文に目を通し、取材を行い、時に愚鈍な民衆に警鐘を鳴らしてきた」


 部長は【超少子化世界における持続的な社会システムの構築について】という記事で日本高校新聞コンクールで文部大臣賞をもらったこともある才媛だが、猪突猛進気味で過激な物言いをするところがある。


「それで一体何を見落としていたんですか?」

「いいか、よく聞いてくれ」


 部長は私に答えると、突然立ち上がり、部屋の隅で漫画を読んでいるあやめの元にずんずんと近づいていった。


「え、え、あの……?」


 あやめはおびえた様子で部長を見上げている。その手にある漫画本をむんずと掴むと、部長はこれみよがしに掲げてみせた。


「それは、これだっ!」

「え、あ、あぅ、すいません」


 今にも泣きそうなあやめと、得意げな部長の顔を交互に見て、私は言った。


「それが……どうしたんですか?」


 表紙には、やたら目の大きな男女が頬をくっつけんばかりに近づいたイラストが描かれている。 


 タイトルは『誘惑★アフタースクール』。


「知らないのか? これは少女漫画という俗本だ」

「いえ、それくらいは知ってますけど」

「読んだことは?」

「あんまりは……」


 旧時代には毎月大量の漫画が発行されていたが、KYウイルスで描き手や編集者の半数を失ったこと、社会の大混乱が重なったこと、それに新規読者たる子供が生まれないことによる採算の問題もあり、今はそれほど多くの漫画本は世に出ていない。


 旧時代の漫画も幾つか見たことはあるが、その大半に男が登場する。接したことのない生き物が主役の話を見せられても、そもそものフィクションが更に嘘臭く感じられてあまり楽しめなかった。


 中には女子高生だけが登場するような漫画もあったが、多くはだらだらとした日常のやり取りが綴られるだけで、何が面白いのかよくわからない。


 部長は掲げた漫画本を横目で見ながら言った。


「私もほとんど読んだことはなかった。漫画なんて所詮はフィクション。弱者の現実逃避の場所に過ぎないのだと考えていた」

「ええぅ……」


 あやめは漫画を取り返したいのだろうが、部長の剣幕の前にそうもできず、ただ変な呻き声を漏らしている。部長は大仰に肩をすくめて『誘惑★アフタースクール』をあやめの手に戻した。


「しかし、先日。次の取材テーマの選定に煮詰まっていた時、ふとロッカーの漫画が目に入った」


 部室のロッカーの一角には、あやめが集めた漫画コレクションがある。どうも家には置いておけないらしく、ここを書庫として使っているらしい。


「あくまで気分転換のつもりでぱらぱらと流し見したが、私はまるで雷に打たれたような衝撃を受けた」

「はい」


 とりあえず頷くと、部長は厳かにこう続けた。


「気づいたのだよ。私は恋愛を全く知らない、と」

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