ムク

 どこまでも広がる、と言うのは嘘かもしれない。割合高い山が向こうに聳えているから。でもきっとその上にはどこまでも広がっているような、そんな空。時節は秋。畑には黄金の穂がよく並び、麻の服に腕を通した村人たちは随分涼しくなり始めた頃合いだと言うのに汗水を垂らしてそれを収穫していく。

その中に一人、少し辛そうに腰を叩いている男がいた。仕事もままならなさそうだったので、私は彼に近寄り手を伸ばして少し腰をさすってあげた。男は不思議そうに振り向いて腰を叩く手を止めると、隣で同じように腰をかがめている女に声をかけた。

「不思議なもんだ。腰になんかが触れたと思ったら、急に痛みがなくなったわ」

 女は顔も上げずぶっきらぼうに答える。

「もっと精を出せってんでしょう。ホラ、さっさと手を動かしな」

「違いねえや。よっしゃ、日が暮れるまでにこの畑を終わらせてやらあ」

「態々言わなくたって元々その手筈なんだよ」

 そんな会話を苦笑いと共に後にして私は道に出る。畑に比べ少し小高くなっていて、緩やかな風が森の方へ私の髪を浚っていった。見上げれば千切れた雲が踊っている。黄金の波が地を渡る。どこかで鶏の鳴く声がした。草木も動物も、その全てが穏やかに息づいている。

ここは毛野の国。私の、この世界で一番美しい国だ。


 森に入ると間もなくして、大きいと言うほどではないけれど人に自慢できるほどには立派な社が建っていた。私を祀る村人たちが建ててくれたものだ。まだ新しくて切りたての木の匂いがしている。ただ一人でいるにはそこは少し広すぎて、いつもその裏にある昔からの小さな祠に腰を落ち着けてしまうのだった。

 祠の脇にはどこから迷い込んだのか狸が一匹うろついていた。まだ気づかれていないようなのでこっそりと木を上り、枝を伝手に狸の上まで移動する。いくら鈍い狸でも上から私が降ってきたら驚くに違いない。そうしてようやくその真上に差し掛かり、ぺろりと舌を出していよいよ飛び降りようという時だった。

「★!」

 目の前で火花が散る。天地が逆さまになって手足をかけていた枝が遥か下に、上に見える。あっと思う暇もなくバサと言う音と共に落葉の降り積もった上に落ちると、いくら落葉があると言っても痛いものは痛い。葉を払いのけ打ち付けた背中を摩り摩り辺りを見ると、狸が驚いて逃げていくところだった。

「いった~……ああ、逃げちゃった」

 そう隣から声がするや否や派手な音を立て、私とぶつかって落ちてきた小さな頭が落葉を跳ねのけて目の前に現れる。一瞬きょとんとしたものの、その距離があまりに近かったので私は思わず吹き出してしまった。少年も一拍遅れて笑い出す。笑いが笑いを呼んで、しばらくの間森に笑い声が響き続けた。


   ◇


「で?狸鍋でも作ろうとしてたの?」

 私が聞くと少年は首を横に振った。

「違うよ、可哀想じゃんか。ただ上からなら僕みたいに鈍い奴でも捕まえるくらいはできるんじゃないかと思って」

 少年の名はムク。この村で唯一、神である私を見る事の出来る人間だ。だが村人たちはそれを知らない。私が彼に口止めしたのだ、

「でも鈍いったって木には上れるじゃん」

「まあ……狩りより木の実取ってる方が好きだったから。でも泳げないし弓も引けないし」

 木の実を取るのは女性の仕事で、男性は子どもの頃から山や森へ狩りに出るのが普通だった。それでなくともどこかの地から敵がやってきた時村を護るのに弓や槍は必須だった。男の子でありながらその辺りが使えないと言うのは少し問題だ。

「そうだなあ……あ、ちょっと待ってて」

 私はある事を思いついてまだ新しい社の蔵に走った。蔵には私に捧げられた宝物やお酒なんかが収められている。宝物の大抵は使いどころのないガラクタだったりするのだが、最近少し変わったものを受け取ったのだ。

「……あったあった」

 私はそれを土で出来た酒瓶の後ろから取り出して埃を払う。固い金属でできている、黒光りする小さな輪だ。その外側は刃のようになっており、対して内側は手で持っても痛くないように丸められている。村人たちの作った新しい武器らしい。私はそれを持って祠へ戻る。

 ムクは何やら拾い上げた黄色い落葉に細工をしているようだった。

「何してんの?」

 私が聞くとムクは細工を終えたのか、右手に持った枝を離して逆の手に持った木の葉を私に見せつけた。丸い穴が二つに細長い穴が一つ。合わせてそれは顔のような形を取っていた。

「栗鼠のお面だよ。これを被って出てきたらみんなビックリするでしょ!」

 それは栗鼠の面と言うには少し大きすぎるように見えた。第一、

「それ、どうやって被せるの?」

「あっそうか」

 お面は盲点を突かれた作成者の手によってあっけなく投げ捨てられ似たような色の木の葉の中に舞落ちて行った。空いた穴からは似たような色がのぞくばかりで風が吹くとたちまちどこに行ったか分からなくなる。私は手に持った例の輪を彼に見せた。ムクは驚いてそれを見る。

「これ、みんなが姉ちゃんの為に作ってたやつじゃん。持ち出していいの?」

 彼は私の事を「姉ちゃん」と呼ぶ。外見上は彼よりも私の方が小さいのだが、そこはそれ。

「私に捧げられたんだから私がどう使ってもいいでしょ。これ、どう使うか知ってる?」

「知らない。鍜治場には入らないし、触らせてもくれないもの」

「ん。じゃあ見てて」

 私も別に使った事はないけれど、その形状からおおよそ使い方は想像がついた。外側が刃になっているという事はまず武器だろう。そして内側は丸められている……という事は。

 人差し指に輪をかけて回してみると、それは音を立てて力を入れた以上に回り始めた。予想以上の勢いに自分でも少し驚いてしまう。と、

「あ」

 その勢いが余って金輪が指から離れる。しかし金輪は運よく私にもムクにも当たることなく目の前の木の枝に当たって、その枝をスッパリと切り落としてしまった。

 私達が落ちてきた時よりも数段重々しい音が地面を揺らす。金輪はしかしその勢いを収め切らず落ちた枝から十数歩歩いた程度の所で落葉を切り裂きながらようやく止まった。

「……すっげぇ…………」

 ムクが感嘆の声を上げる。偶々いい感じに飛んでいった事には気づいていないのだろう。枝をまたいで金輪を取りに行きながらそれが斬り付けた枝の断面を見ると、力任せになまくらの斧を叩きつけるよりも遥かに綺麗に切れていた。私は別に力の強い神じゃない。それでも輪を回す力だけでこれだけの物を切り落とすことが出来る。道具と言うものはつくづく面白い。

 金輪を拾ってムクの方を向きそれを軽く回してみると、少年は何か声を上げて木の裏に隠れてしまった。あはは、と笑いながら回すのをやめ彼のもとに戻る。

「どう?これなら君が鈍くても使えるんじゃない?」

「かもしれないけど……でも村にはそんなにないよ、それ」

 ムクが木の裏から出てきて祠に腰掛ける。確かにそうだ。これをあげた所で見つかってしまえばなんで彼が持っているのか問い質される事だろう。良くても盗人扱いだ。

 私はちょっと迷った後で言った。

「じゃあこうしよう、人のいないときにここに来てくれたら練習させてあげる。それなら蔵から金輪もなくならないし、君も持ち帰らなくていいでしょ?」

 ムクは納得したようにうなずいて目を輝かせた。

「そっか!じゃあそうする。ね、今やってみてもいい?」

「こっちに飛ばさないでよ?」

 金輪を渡すと少年は祠から飛び降り少し離れた所へ駆けて行った。そうして金輪を指に掛けようとして、ふとその手を止める。

「……でも」

 ん、と頬杖をつこうとした手を止める。少し少年の顔に見慣れない影がよぎったような気がしたからだ。彼はその事には気づかなかったように、少しこちらへ笑って見せた。

「出来たら、あんまり使いたくないかも」

 ……珍しい子だ。神が見えるとか以前に、普通の人間としても。

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