第40話

 ベッドの上から微かに寝息が聞こえる。音羽は小さくため息を吐いた。

 あれから瑠衣は泣き疲れて眠ってしまった。理亜の力になれない自分を責めながら。そんな彼女の眠りを妨げたくなくて部屋の電気は点けていない。暗い部屋の中を照らすのはカーテンが閉められていない窓から差し込む、頼りない街灯の光だけだ。

 音羽は何度目かもわからないため息を吐いて、テーブルの上に置きっ放しにしていたスマホを手に取った。


 ――どうしたらいいんだろう。


 真っ暗な画面を見つめながら思う。

 理亜を助けると決めた。その為にはなんでもしよう。そう心に決めて、一体何が変わったというのだろう。警察の捜査を止めることもできていない。理亜が堂々と生きていくためにどうしたらいいのかも未だにわからない。何一つ状況は変わっていないのだ。良くも、悪くも。

 もしかすると理亜は諦めたのかもしれない。コネも力もないただの子供が人を殺めた者を助けることなど出来るわけがない。いくら助けを求めたとしても現実はそう簡単にはいかない。そう、彼女はあらためて感じたのかもしれない。


 ――それでも。


 音羽はスマホのロックを解除して着信履歴を表示させる。その一番上には理亜の名前。しばらくその名前を見つめると、音羽はスマホを待機画面に戻した。そこに大きく表示された時刻は午前二時十分。


「……いつのまに」


 どれほどの時間ぼんやりしていたのだろう。音羽は声もなく苦笑する。そのとき、クウッと腹が鳴った。そういえば夕食を食べていない。時間の経過を思い出した途端に空腹も思い出すとは、なんとも正直な身体である。音羽はスマホを手にして立ち上がると静かに部屋を出た。

 深夜の寮内は静かだ。明日も学校なので夜更かしをしている者もいないのだろう。

 微かに響く自分の靴音を聞きながら音羽は食堂へと歩く。深夜に食堂へ行くのは初めてではない。理亜がいなくなってからしばらくの間は、よくこうやって一人こっそりと誰もいない食堂へ行ってはパンの自動販売機でクリームパンを買って空腹を満たしていた。


「……なんか、久しぶりだな」


 呟きながら食堂の中を覗く。当然のことながら、そこには誰の姿もなかった。ジーッと低い機械音を響かせているのは自動販売機だ。パンの隣にはパックドリンクの自動販売機もある。音羽は自動販売機の前に立つとクリームパンと牛乳を購入してテーブルにそれを置く。そして少し考えてからもう一セット、同じ物を購入した。瑠衣も寮に戻ってからは何も食べていなかった。きっと空腹であるはずだ。明日の朝には食べてくれるだろう。

 音羽はテーブルに着くと、自分用のクリームパンを開けて一口かじった。なんとなく懐かしいその味は深夜に食べるには甘すぎる。そう思いながらもう一口食べて、音羽は食堂の窓へ視線を向けた。

 ブラインドが下ろされた窓からは自室と同じように街灯の明かりが弱々しく差し込んでいる。夜明けはまだ遠い。音羽はポケットに入れていたスマホを取り出すと再び着信履歴を表示させた。

 耳の奥には最後に聞いた理亜の言葉が何度も蘇ってくる。


 ――もう、いいんだよ。


 掠れた理亜の声。しかし、それが彼女の本心であるとはどうしても思えない。音羽は知っている。彼女は本当に助けてほしいときほど平気な振りをするのだということを。理亜は素直じゃないのだ。夏に高熱を出したときだってそうだった。

 明らかに体調が悪そうだった理亜を病院に連れて行こうとしたとき、彼女は平気だからと笑って言った。


「病院くらいひとりで行けるって。平気、平気。だから音羽はちゃんと学校行きなよ」


 そう言って音羽が制止するのも聞かずに出て行った理亜は、寮の前で倒れて救急車で運ばれてしまった。彼女は全然大丈夫ではないときに限って平気な振りをする。


 ――今回だって、きっと。


 画面に表示された理亜の名前に触れるか触れないかの位置で指を左右に動かしながら考える。そして二回だけコールしてみようと決めた。

 こんな時間に、それもたった二回のコールで彼女が出るわけがない。そんなことはわかっている。しかし明日になって電話をする勇気はおそらく自分にはない。それも音羽には分かっていた。


「最後に、一度だけ……」


 口の中で呟きながら画面をタップする。少しの間があって聞こえてくるコール音。一回、そして二回……。


「出るわけないよね」


 小さく息を吐くように自嘲してスマホを耳から離す。その瞬間「音羽?」と声が聞こえた。音羽は慌ててスマホを耳に押しつける。


「こんな時間に、どうした?」


 理亜の声だった。いつもよりは低い声。しかし寝起きという感じではない。


「――なんで出たの?」

「なんでって、かかってきたから」


 当たり前のように彼女は答えた。その声に、どんな感情が込められているのかわからない。音羽はスマホを持つ手に力を込める。


「こんな時間まで起きてるの? もう二時過ぎてるよ?」

「それはお互い様でしょ。わたし、引きこもりだから時間感覚狂ってるし」

「たった二回のコールで出た」


 理亜は答えない。


「……もしかして、待ってたの?」


 しかしやはり理亜は答えなかった。ただ、フッと彼女が息を吐いたのがわかった。


「理亜、わたしね」


 音羽はテーブルの上に置いた牛乳のパックを見つめながら静かに続ける。


「やっぱり助けるよ、理亜のこと。理亜が迷惑だって言っても、わたしは理亜を助ける。絶対に」

「――どうして?」


 低い彼女の声は微かに震えている。音羽は自然と微笑んでいた。


「だって、理亜がわたしを助けてくれたから」

「わたしが?」

「そうだよ。理亜との生活は一年もなかったけど、それでもわたしはずっと理亜に助けてもらってた。人見知りで、学校にもクラスにも馴染めなかったわたしを乱暴な言葉で励ましてくれたでしょ。テストで赤点ギリギリだったときは勉強を教えてくれた。それに、わたしがちょっと体調崩すとすぐに栄養ドリンクとか買ってきてさ、いくら拒否しても強引に飲ませてくるの」

「そうだっけ」


 理亜の笑いを含んだような声が言う。音羽も「そうだよ」と笑った。そして「でも」と息を吐き出す。


「わたしは助けてもらってばかりで何も理亜を助けてあげることはできなかったから。だから今度は、わたしがあなたを助けたい」

「別に、助けはいらないって言わなかったっけ?」

「言った」

「だったら――」

「なんで電話に出たの?」


 理亜の言葉を遮って音羽は言った。


「助けはいらない。もう放っておいてほしい。そう言うなら、わたしからの電話なんて無視すればいいじゃん」


 沈黙。食堂には自動販売機の音だけが響いている。ふいに窓の外から差し込む灯りが揺れた。寮の前の道を車が通り過ぎていったのだろう。


「――学校」


 ふいに聞こえた理亜の声に音羽はスマホへと意識を戻す。


「明日、学校が終わったらさ」

「うん」

「公園まで来てよ。海辺の」

「……理亜と会った場所?」

「そう。見せたいものがあるんだ……。待ってるから」


 そう言って理亜は一方的に通話を切ってしまった。音羽はしばらく耳にスマホをつけたまま、ぼんやりとテーブルを見つめていた。


「理亜――」


 自分の気持ちは彼女に伝わったのだろうか。それとも伝わらなかったのか。

 考えたところで答えは出ない。音羽はスマホをポケットに入れ、パンと牛乳を抱えて部屋へ戻ることにした。

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