第29話

 あまりよく眠ることもできないまま迎えた翌日。瑠衣は始発の電車で一度家に戻ると言って、まだ陽も昇らない早朝に窓から出て行った。結局、自分たちが何をするべきか何も答えは出ていないままだ。

 音羽はノロノロと登校の準備をしながら椅子に置いたバッグに視線を向ける。そしてため息を吐いた。そこには昨日、理亜に会う前に駅で買ったペンダントが入ったままになっている。

 お揃いで買った理亜へのプレゼント。

 しかし渡すタイミングもないまま持って帰ってしまった。こんなものを渡すような雰囲気でもなかった。

 音羽はもう一度ため息を吐いてから学校用の鞄を手に部屋を出た。

 月曜の朝という気怠い雰囲気が漂う教室。いつもと変わらぬ一週間の始まり。しかし、音羽にとってはいつもとまるで違う一週間の始まりだった。

 ホームルームの間も、そして授業が始まっても教師の話はまるで頭に入ってこない。音羽は頬杖をつき、ぼんやりと黒板を眺めながら昨日の理亜の話を思い出していた。

 理亜はきっと幸せな人生を手に入れたのだろう。自分が望んだ人生を。それは本来、当然の人生として彼女が手に入れるはずだったものだ。それを再び奪われてしまうようなことがあれば、きっと彼女は壊れてしまう。いや、もしかすると音羽が出会ったときには、すでに理亜は少し壊れていたのかもしれない。美琴と出会い、真実を知ってしまったときから少しずつ。

 でなければあんなに無邪気な笑顔で人を殺したなんて告白するはずがない。これ以上、理亜を苦しめたくはない。理亜の今の人生を壊すようなことがあってはダメだ。そのためには、やはり警察をどうにかするしかない。


 ――どうやって。


 ただの高校生である自分に一体何ができるのだろう。

 考えは昨日から堂々巡りだ。音羽は目を閉じて深くため息を吐く。そのとき「崎山さん?」とすぐ近くで声がした。音羽はハッと目を開ける。すると目の前に心配そうな表情で立つ涼の姿があった。


「え、あれ。授業は……」

「もう終わったよ」

「あー、そうなんだ」


 音羽は笑って誤魔化しながら教科書を机の中に入れる。


「……大丈夫?」


 心配そうな涼の声に音羽は「ん、なにが?」と顔も上げずに答える。


「すごく思い詰めた顔してたから」

「わたしが? そんなことないよ。全然、普通だし」


 音羽は答えながら次の授業の教科書を取り出す。その様子を見ていた涼が浅く息を吐いた。


「次、英語じゃないよ?」

「え、あれ。そうだっけ?」

「やっぱり大丈夫じゃないでしょ」


 そっと涼の手が机に置かれた。思わず音羽が顔を上げると、すぐ目の前に綺麗な涼の顔があった。大きな瞳は心配そうな色を滲ませている。音羽は視線を逸らしながら軽く笑った。


「大げさだな。ただ次の授業、間違えただけじゃん」

「目の下にクマがある。寝不足?」

「いつもだいたい寝不足だから」

「昨日会ったっていう友達と何かあった?」


 その言葉に音羽は涼へ視線を戻した。そして微笑む。


「何も。大丈夫だから、心配しないで」


 真っ直ぐに彼女の目を見つめて言う。しかし涼は「ウソ」と静かに言った。


「何がウソ?」

「そういう顔をしてるときの崎山さんは大丈夫じゃないってわたしは知ってるから」

「え……」

「何度も、そういう顔をして大丈夫って答える崎山さんを見てたから」

「そういう……?」


 音羽は呟きながら眉を寄せる。


「どんな顔?」


 訊ねると、涼は悲しそうに微笑んで「苦しいのに強がって、頑張ってる顔」と答えた。そして少し首を傾げる。


「何か悩んでることがあるなら言って? わたしにできることがあるかもしれないし」


 心からそう思ってくれているのだろう。涼の言葉は真っ直ぐで、音羽の心に染みてくるようだった。しかし相談などできるわけもない。


「大丈夫だよ」


 音羽は表情を崩さず、微笑んだまま言った。


「そっか……」


 涼は笑って頷きながら目を伏せた。そんな彼女を見てチクリと胸が痛む。こんなにも純粋に心配してくれている彼女に対して申し訳なさが広がっていく。そのとき音羽は無意識に「一つ、相談してもいいかな」と口を開いていた。瞬間、涼が嬉しそうにパッと笑みを浮かべる。


「うん、もちろん! どんなことでも!」


 勢いよく彼女は言う。音羽は苦笑しながら「そんなたいしたことじゃないんだけど」と続ける。


「実は、昨日久しぶりに会った子にプレゼントを買ったんだけど渡しそびれちゃって」

「プレゼント?」

「うん。待ち合わせの前にね、すごく彼女に似合いそうなアクセを見つけたから勢いで買っちゃったんだけど、いざ渡すとなるとタイミングとかつかめなくて。なんか恥ずかしいし……。結局、そのまま持って帰って来ちゃって。どうやって渡したらいいかなぁって」

「うーん。また次に会ったときじゃダメなの?」

「渡せる自信はないなぁ。いきなり渡されてもって感じしない? 趣味じゃないって言われたらショックだし」

「たしかに」


 うーん、と涼は腕を組みながら首を傾げる。そして少し考えてから彼女は「郵送っていうのはどう?」と言った。


「手間はかかるけど、直接よりは渡しやすいんじゃない? 手紙とかつけてさ」


 郵送、と音羽は口の中で繰り返す。たしかにそれならば理亜に気を遣わせることはないかもしれない。渡すタイミングも、場の雰囲気も考えなくていい。


「あ、でも住所がわかんないと無理か」


 気づいたように涼は言って眉を寄せる。音羽は「ううん、大丈夫」と笑みを浮かべた。


「住所、知ってるから」

「そうなの?」

「うん。学校が終わったら手紙書いて送ってみるよ」


 音羽の言葉に涼は嬉しそうに頷いた。そして「よかった」と安堵したように息を吐く。


「何が?」

「少しだけ、崎山さんがちゃんと笑ってくれたから」


 音羽は片手を自分の頬にあて、そして「うん。ありがとう。下村さん」と素直に感謝を伝える。涼はくすぐったそうに笑って頷いた。そのとき、休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。涼は席に戻りかけ、そして思い出したように「その教科書も違うからね」と苦笑した。


「え?」

「次は英語でも現国でもなく、古典だから」

「あ……」


 音羽は慌てて教科書を入れ替える。涼は苦笑の中に、やはり心配そうな表情を覗かせながら自分の席へと戻っていった。

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