爪が生えなくなるらしい

@hitoito

第1話

体の部位を些細な出来事で喪失する。

大したことはない、Googleに出てくる病例は思い過ごしだと放置していた。


私にはストレスが溜まると指の皮をむしる癖がある。左手の親指を特に酷くやってしまって、菌が入って化膿した。大体放置してても治るので気にせず過ごしていた。3週間様子を見て、それでも治らないので重い腰を上げて皮膚科に行った。新宿南口の狭い病院だ。夜8時まで診療をしているので都合が良い。番号を呼ばれて先生に指を見せると、想像よりも深刻な顔になった。


「だいぶ放置したね?」


叱られた感覚になった。仕方無いのだが。異物に反応して出来る肉芽腫があって、それを焼かねば細菌を殺せないらしい。そして爪を剥いだほうが一気に治るらしい。そんな大掛かりな治療になるなど想定外である。


まず局所麻酔を打った。親指が燃えるように熱くなり暫くすると、指の形をした異物、自分の肉体から切り離された肉の塊になった。これが麻酔か。小学生のとき歯茎に豆あじの骨が刺さってそれを取る時に打った振りである。

寝転がって先生の顔を見たら、数秒目を見て考え込み始めた。何だと思ったら、


「眼瞼下垂じゃない?見にくかったり頭痛くなったりするでしょ。」


と聞かれた。図星である。知り合いに眼科医がいるそうで、紹介しようかとも。過去この重たい瞼で悩んだ時期があったのでぎくりとした。


さて手術が始まったら医者もびっくりな症状らしく、肉芽腫を取る前後で写真をパシャパシャ撮っていた。どうやら放置のしすぎか理由は定かでないが、肉芽を取り除いて根本を確認すると爪が生えてきていなかった。


「これね、見える?爪生えてきてないのよ、爪母やられてたらもう爪生えてこないんだよね。」


その言葉を聞いて呆然とした。そこから現状と治療の方針、処方について説明を受けたがこれからどうしたらいいのか、なぜこうなったのか、手の親指に爪のない女になる恐怖の中に突然投げ入れられて耳に入らなかった。衝撃を受けると頭が真っ白になるとよく言うが、まさしくそう言う状態になった。真っ白になる、というか受け入れられない事実に拒否反応を起こしいつもの倍の想像力を働かせて目まぐるしく、まとまった考えが持てない。とめどなく涙が溢れて鼻水も垂れる。看護師さんにティッシュをもらった。会計に向かっているときも病院の入ったビルから出る時も、ぼやけた視界には自分の靴しか入らない。覚束ない足取りでただ歩みを進めていた。


ビルの入り口の端で母親に報告と慰安の為電話をかけた。


「でもさらに悪化して腕を取らなければならなかったかもしれないと考えると、今行ってよかったよ。」


そう母は言った。そうかもしれないが。それを受け入れて納得するキャパシティは今、持ち得ていない。電話を続けながら薬局に向かった。無心で処方してもらい会計を済まし、茫然自失の状態で電車に乗った。


家に帰ると温かいクリームシチューが食卓に並んでいた。病院で順番待ちの時にクリームシチューが食べたいと母にLINEしていたから。母の優しさに胸が痛くなる。薬局ですぐに痛み止めを飲ませてもらったがジクジクと痛む。そういえば、爪を剥いだ部分は5日程度で表皮が生まれて痛みはなくなると言っていた。局所麻酔の名残で親指が痺れている。職場の人に報告し、勉強などする気分でもなくすぐに寝た。


翌朝、薬を飲んだ後テーピングを貼り替えた。が、これが実に痛かった。まだ肉が丸出しの患部にガーゼがこびりつき剥がすのがまず痛く、次に消毒液をつけた時があまりに痛くて痛くて悶え苦しんだ。軟膏を塗ると少し収まり、ガーゼを上に置いてテーピングした。終わった後も暫く痺れるような痛みがあり、食欲が減退して朝食を残してしまった。痛み止め飲んだって変わらないではないか!怒り。そのあとはまあ、落ち着いたが。


職場へ行き、出来る範囲で作業した。痛み止めは4時間で切れるのでその度に飲んだ。ふとした拍子にひりつく激痛が走り、手術中の景色が鮮明に頭に浮かび、爪がもう生えないんだという事実に打ちのめされる。人と話している間はまだ元気でいられるが、一人になると辛くて死んでしまいたくなる。私の指の爪はピンク色で艶があって縦に長くて、体の中で自慢できる部位の一つだった。これがこうも簡単に失われるのかと思うと、納得しきれない。


なぜ私がと考えてしまうが、この出来事も含めて世の全ての事象は偶然の結末であって理由など存在しない。理由はいつだって後付けだ。致し方ない、わかっている。分かっているが、受け止めきれない。


そういえば、私の脚は左右で長さ太さが違う。産院で産まれた直後に左脚の付け根の関節が外れて変に戻したという話を母に聞いたことがある。左足に十分に栄養がいかず、逆に右足には余計に栄養が行っているのだ。こういう状態がデフォルトで忘れていたけれど、私の体は元々バランスが悪くて正しい人間としての要素が欠けている。それに加えて左手の爪をも失うとは。どちらも手術で治るものではなく、私は恵まれない側の人間なんだなと思った。よく、誰でもなり得ると警鐘しているのを耳にはしても、それが起こる低い確率と己の健康を過信しているから、本当に身に降りかかったときに戸惑う。恐い。当たり前にあると思っていたものがこれから先なくなる、ガラガラと崩れていく未来に震える。


「恐れというものは、いつも自分の価値を自分に確かめたがるけちな心から生れる。」

-『恋愛論』スタンダール


これは恋愛に限らないかもと思った。爪を失ってさらに醜くなった自分の、下がっていく価値を確かめようとして必要以上に恐れている。親指の爪などなくとも命に害はないのに。身体欠損による美的評価の低下が嫌で仕方無いのだ。痛みは数日待てば消えるから我慢できる。しかし痛みを感じることはすなわちその恐れに直結する。だから痛む度に泣くほど辛くて苦しい。


明日は仕事に行ったのち再び診察に行く。宣告されたとき、きちんと受け止められるだろうか。突如現れた不条理や苦難を飲み込み、前に進む強さを持たなければならない。

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