清月思
天水しあ
第一集「廃寺」
僅かな荷物とともに宿の主人から渡された一通の書を見て、
主が怪訝な顔で自分を見ているのは分かっていたが、どうしても紙面から目を離せない。
ほどなく主は宿に入り、彼は一人、宿先に残された。
『ごめんね
そういうことだったのか――彼は、唯一の身内である母と、その再婚相手と三人で、男の故郷に向かう途中だった。しかし琳瑯が何度尋ねても、二人は行先を教えてくれなかったのだ。
だけど住んでいた家は、既に人手に渡っている。いまさら帰るところなんか――。
いきなり後ろからどんと押され、転びそうになった琳瑯が振り向くと、大荷物を背負った小柄な男がチッと舌打ちをし、足早に去っていった。
自分、邪魔だな――そう思った琳瑯は、とりあえず人の流れについていくことにした。ただただ歩いていると、やがて大路に出た。城壁に囲まれたこの城郭都市を、東西に二分する大路である。
目を上げると、見事なまでの夕焼け空の縁に、夜色が色濃く滲んでいた。
右手には皇帝のおわす宮殿と官庁街である皇城が遠目にも荘厳に、左手には都の出入口である南大門が、見上げると首が痛くなるほど高く、重厚かつ豪華に建っている。
琳瑯が進むべき道を迷った、そのときだった。右手から鼓の音が鳴り出したのは。
北の承天門で叩かれる『暮鼓』八百声だ。
音が止んでなお路を歩く者は「犯夜者」として捕らえられる。
とっさに左に曲がったが、先を行く人々は、左右の小路に入り、どんどん姿が消えていく。
「そうだ」
ふと思い出したように呟いた琳瑯は、にわかに足を速め、南大門が目の前、というところで右折する。彼が足を止めたのは、崩れかけの土壁に囲まれた一角だった。土壁に設置された門扉は塗装が剥げ落ち、掲げられた扁額の文字も同様で、読めない。
中を覗くと、日の射さない敷地内は暗く、ただ葉擦れの音だけがザザと不気味に揺れていた。
さすがに足が竦む。
しかし他に行くところはない。
追い討ちをかけるように、鼓音の最後の一声が、夕暮れに消えようとしていた。
ええいっ、琳瑯が意を決して足を踏み入れた途端、背後でバタンと扉が閉まった。恐る恐る振り返るが、当然ながら誰もいない。
風でも吹いたんだ、きっと。琳瑯は、そう自分に言い聞かせる。
改めて正面に向き直った。
一面は草で埋め尽くされており、奥には、基壇の上に建つ大きな建物がある。
一晩だけだ。
明るくなったら、落ち着いて今後を考えよう。大丈夫、何も出やしない。
「ほら、月も出てきたし」
琳瑯が自分を励ますように明るく声にしたとおり、背後から射し込んだ月光が、境内を青白く照らし出した。
琳瑯は草を掻き分け基壇に上がると、扉はないが建物の入り口と思しき場所に立った。
そっと中を覗きこむ。幾筋もの月光が、割れた壁や屋根から射し込み、がらんどうの空間を照らし出してくれた。寺院だったのだろうが、仏像等はすでになく、どうやら人(死体含む)もいないようだ……琳瑯はほっと息を吐いた。
そこで踵を返し、基壇の縁に腰を下ろす。
宿先で渡された包みを広げながら、ついさっき買った
包みの中身は、竹筒に入った水と、着替え。
何だか硬い手ごたえがあると着替えを広げてみると、不自然に畳まれた袖口に、幾ばくかの銅銭が捩じ込まれていた。
まさかあの
いや、きっとこれは――そっと懐に手を差し込むと、指先にかさりと触れるものがある。知らず笑みがこぼれた。
残った焼餅を口に放り込み、竹筒の水に口をつけたとき、井戸らしきものが喪の端に留まった。
焼餅はあと二枚残ってる。ここで水を確保できるなら心強い――琳瑯はすぐさま基壇を飛び降りた。
腰丈まで伸びた草を掻き分け進んでいくと、石の一部が崩れてはいたが、やはり井戸のようだ。足元の小石を拾ってぽいと投げ込むと、しばらくしてちゃぽんという水音が返ってきた。傍らには紐のついた木桶も転がっている。
俺ってついてる! 喜び勇んで進めた足が、不自然に柔らかいものを踏んだ。勢いづいた体勢が崩れ、つんのめるように井戸の中を覗き込んだ途端――。
「――わあああっ!」
自分でも驚く大声が出た。気づいたら、何故か無様に尻餅をついている。
「い、今……」
歯の根が合わない。今、確かに、井戸の中に、髪の長い女が――。
「こんばんは!」
「わあああっ、命ばかりは!」
後ずさろうとして草の根に絡みつき、琳瑯はそのまま後ろにひっくり返った。
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