リンゴの絵の上の落書き

椎名宗一郎

 防災無線によって街中へと流れでる夕暮れが、一日の終わりを僕に知らせる。室内まで侵入する鐘の音と、それと張りあうような蝉の声に「迷惑行為で通報してやろうか」と微量のおどし文句をこぼしながらも、僕は睡眠によって盗まれた多くの水分をどうにかするべく、自らの意識をベッドの上の渇いたからだと同調させている。人間の動力に必要な成分のほとんどは水分である。もし、この目が覚めたときの水分不足の状態が、車でいうエンプティ、つまりガス欠であるとするなら、その状態のからだをすぐに始動するという選択はあまり得策ではない。そう考えて、僕はベッドからテーブルへと手を伸ばし、ある得策とやらの実行に取りかかったのだった。

 目をつむっていても、いつもの場所に置かれたそれを手に取ることはたやすい。車とおなじように、人間にもオイル下がりを避けるための多少の暖気が必要なのである。僕の場合はそれが煙草にあたるわけなのだけれど、今日のそれは、触れたそばからいつもとは違う妙な予感を指先へともたらしていた。

 眠りにつく前、我慢できずに吸ってしまった最後の一本が、むなしくも頼りない小さな箱のウェイトから思い起こされる。僕は「チッ」という舌打ちとともに、空き箱となったハイライトをテーブルの向こうへと投げかえすのだった。

 こうなるともう僕は動けない。オイルがないのだからエンジンが焼きついてしまう。などと思い通りにはならない現実に子供じみた言いわけをしながら、年季のはいったエアコンから製造される無色の冷気を浴びるべく、僕は頭上にあるリモコンを取ってスイッチをいれた。夕方とはいえ、真夏のベランダに設置された室外機がまたたく間にけたたましい抗議の声をあげていたけれど、僕としては白い煙のあてつけに黒い労働を強要したつもりはない。シニアにはいささか酷だっただろうか。しかしどうか、クレームは労基までお願いしたい。

 そうしてしばらく夏の夕暮れとたわむれたのち、僕はガソリンを補給するために一階へとおりてゆく。

 居間には夕方のニュースを見る、いつものむずかしい顔があった。その表情から察するに、今日の取り組みは『正代』が負けたのかもしれない。僕としては『貴景勝』が休場しているので興味はないのだけれど、いまは父の気持ちをおもんばかって、この手の話題は控えておくことにした。

 周囲に漂うしょうゆのあまい匂いにつられて台所を見てみれば、夕飯づくりの合間に電話をする母の姿があった。「ええ、ええ。こちらは変わらず健やかに生活ができていると思います。はあ、そんな大事なことを先生に任せてしまってよろしいのでしょうか。はい、わかりました。どうぞよろしくお願いいたします」どんな話しをしているのかはわからないが、僕としては夕飯よりも先に母に訊きたいことがある。べつに父でもかまわないのだけれど、こうしたやり取りはいつも母としているせいか、なんとなく気恥ずかしくもあったので、僕は黙って父のななめ向かいに座り、あぐらをかきながら電話が終わるのを待つ。

「今日はバイトだったか」

 こちらの存在に気がついた父が、これまたいつものように言った。白髪交じりのふたりの両親はすでに定年を迎えており、庭の手入れや小さな畑の世話をしたりと、普段から家にいることがほとんどだ。

「うん」僕は簡潔に答える。

 いい歳こいてちゃんとした仕事に就いたらどうか。そう言われてもおかしくはないのに、父は「そうか、まあ無理しなくてもいいからな」とやさしい言葉をかけてくるので、それがまた僕のうしろめたさを加速させる一因となる。

 ちゃんとした仕事に就けずにいる理由は明白で、いまはぐらつく足場のなかで、なんとか踏ん張って生きている。そんな現状を繋いでいるのが、もしくは左右しているのが、毎日迎える『夕飯よりも先に訊きたいこと』なのだった。

「あら、起きたの。もうちょっとでできるからね」

 電話を終えたらしい母が、僕に気づくなり言ってくる。

心音利ことりの様子はどう?」

 僕は透かさず言葉を返した。

「そうね、あんまり変わらないみたいだけど、んー」しばらく唸ってから、母は突然なにかを思い出したようにはっと手を叩いた。「あっ、そういえば、よくご飯が食べられるようになったそうよ」

 それは、僕にとってこの上なく嬉しい知らせだった。

「よかった。順調なんだね」

 僕の妹は病気により、つい半年前まで入院生活を送っていた。本来は高校生なのだけど、その病気というのが肉体的なものでなく精神的なものだったため、もう学校には行けていない。彼女の精神の安定を考えるべく両親が精神科の先生を交えて話し合った結果、いまは実家を離れて祖父母の家で過ごしてもらっている。少し前までの彼女は、何日も部屋にこもりきりだったと聞いていたものだから、ご飯が食べられるようになったのはとても大きな進歩だった。

 どうかこのまま順調に、回復へと向かってほしい。

 妹のためにも、僕のためにも。

 じつは僕自身も妹のことがきっかけで多少なりとも精神に異常をきたしているらしく、先生から言われた通り、いまは彼女との接触を控えている。その方が、おたがいの精神にとっては良いのだそうだ。本来なら、そうやって希望を持つことが大事なんだと思う。しかしどうしても、もう一つの可能性が頭をよぎってしまう。

 いったい、いつになったら治るのだろう。いつになったらあの平穏に暮らしていた日々が戻ってくるのだろうって。

 もし治らなかったら。

 そう思うと、息が苦しくなって、動悸がして、耳鳴りがして、僕は動けなくなってしまう。ずっとこのままだったら、はたして妹は不幸になってしまうのだろうか。

 僕は考える。

 たとえ治らなかったとしても、彼女がしあわせでいられる方法を。

 しあわせとは、心が満ち足りている状態をあらわす。それが事実ならば、仮に心が壊れていたとしても満ち足りていればしあわせなのだろう。だけど、もし心というものが器のかたちを成していたらどうだろうか。破損部分からしあわせが漏れ出てしまうかもしれない。その場合、根本から修復するか、もしくは漏れ出てしまった以上のしあわせを与え続けるしか方法はないのだろうか。

「ほら、そんなところでぼさっとしてないで、はやく顔を洗っていらっしゃい。今夜バイトなんでしょう?」



「世のなかカネがありゃあなんだってよ」コンビニのバックヤードで、菓子パンを盗み食いしている同僚の時田孝ときたたかしがいった。「恋愛なんてもんも、しょせんはルックスの良し悪しだろ」

 微量の不満を織り込んだような言い方が気になったけれど、少なくとも僕の知る限りでは、彼は現在そのどちらとも持ちあわせてはいない。なにも持ってないのなら、せめて笑ってみてはどうだろうか。そう言おうとしたところで、笑ったことのない自分が言っても説得力に欠けるという事実を思い直し、僕は口をつぐんだ。

 時田とは高校からの付き合いだった。だらしないこの僕にコンビニの深夜バイトを紹介してくれたのが彼であり、いまでもなにかと世話を焼いてもらっている。

「おまえはいいよな、そんなに顔が整ってんだから」

 ご都合主義な恋愛ドラマと違い、実際の恋愛や夫婦関係における難関は愛がどうのとかいう本質的なところにはない。結局、『自分をかまってくれる相手なんてこのひとくらいしか』という単に選択肢が少ないだけの劣等感にも似たさみしさこそが、そういった男女の関係をむずかしくしているように思う。

 時田のいう不満はそもそもからして、その選択肢とやらが一つもないことに起因している。たしかに顔が整っていれば、選択肢をつくる手がかりくらいにはなるかもしれないけれど、僕には時田の容姿が劣っているとも思えない。だから、恋愛なんかなくても人生は素晴らしいし、世界は美しいから。そうはげましてあげようとも思ったのだけれど、人生経験もなく、見る目の濁りきったこの自分がそんな綺麗ごとを言ったところで説得力に欠けると思い、僕はふたたび自らの口をつぐむのだった。

 こうした時田のわりきった人生観には好感が持てる。僕とはおカドが違うからだろうか。高校から長く付きあってこられたのも、おたがいの人生観に摩擦が生まれなかったからなのかもしれない。

「どうもこんばんは」

 しばらく前に店内に入ってきていた女性客が、レジに立つ僕へと声をかけている。そもそも深夜帯の、というかコンビニの店員に挨拶をする客なんてほとんどいない。だから、こうした些細なことに違和感を覚えてしまうのはコンビニ店員の職業病みたいなものであり、なかにはあだ名をつけられてしまう客なんてのも。

 女性客は、僕の前にミネラルウォーターをおいた。昨日もミネラルウォーター、その前も。歳は二十代前半、僕とおなじくらいだろうか。黒い髪のなかに一束の青い髪が垂れている。しっかりとメイクされた顔は美しく整っており、しかし相対するような寝巻きともいえないみすぼらしい格好が、深夜帯という排他的な世界観の演出に一役買っているようだった。あだ名はバークリ。なんでも、浮浪者のような彼女の存在がどことなく哲学的であることから時田がそういった。常連客だった。ちなみにバークリと呼ぶのは時田だけである。彼女は僕以外には挨拶をしないことから、目的は僕だと思われている。

「いらっしゃいませ」

 僕は彼女とのあいだに他人という壁を構築すべく、他人行儀にいった。

「ねえ、浮気をするひとってどう思う?」

 彼女は僕を他人と思っていないのか、目の前の壁が見えていないようだった。

「はあ」正直なところ、僕は彼女との距離感を測りあぐねていた。その視線や言葉には男女の温度とか、性的なニュアンスなどは感じられない。ただ、それとなく拒絶をしようにも『勘ちがいと思われたらどうしよう』という絶妙な距離感であり、また質問についても、それこそ時田のいう哲学的な内容だったので、頭のネジの飛んでいる僕をより困らせるのだった。「まあ、女の子が好きなんだなとしか」

「でも、それは誰にでもいえることでしょう?」

 例外もあるのでは、とも思ったけれど、恋愛の類に興味がない僕はつい、いつものように自然の流れへとその身をゆだねてしまう。

「たしかにそうかも」

「たとえば、どうしても自分のものにしたい、好きなひとが私にできたとして、おそらく私はそのひとに自分のことだけを見てほしい、と思うし、他の女なんか見てほしくない、とも思うの。だって嫉妬する感情も、嫉妬している自分もいやだもの。でもそれは、男女に限らず誰でもおなじ気持ちだと思うのよね」

 世のなかに存在するあらゆるメンタルの不調は、嫉妬が原因だと僕は思っている。嫉妬をしなければメンタルの不調は起り得ない。しかし、多くにひとはこれを間違って認識しているらしい。

 自分のいる位置を、他人のいる位置と比較することはできない。なぜなら自分の位置、言い換えればその精神は自分だけの世界であり、その世界のなかに他の誰かの精神が介在するなんてことは、どう考えても現実には不可能なのだから。

 ただ一つだけ、自らが他人の精神へと侵攻を試みる場合がある。それがおそらく、彼女のいう『好き』の感情なのだろう。とはいえ、この好きという感情の構造が、まるで嫉妬のそれとおなじであることから、『好き』と『嫉妬』は表裏一体であり、切っても切れない縁とやらなのだろう。

 ならば、上手に付きあうほかに方法はないように思うのだが、彼女が提案してきたのは、僕の嫌悪するもう一つの選択肢。一方的な精神の拘束という、ひとの尊厳の一切を無視する常軌を逸したものだった。

「だったら、やっぱりそのひとを自分の手もとにしっかり閉じ込めておかないと。場合によっては、縛りつけておくことも考えておいたほうがいいと思わない?」

 じんわりと口内に滲む、赤い血の味。

 唇が切れたわけではない。おそらくは歯を食いしばったときに昇った血流の勢いに耐えられず、どこかしらの血管が切れたのだろう。

 そう、キレている。僕は怒っている。そう自覚することが、怒りをコントロールする最適の方法。自分がなにに対しどう怒っているのか、この怒りが理不尽であることも、理不尽な怒りが彼女には関係ないことも、僕にはわかっている。

「これだから三次元のガキゃあダメなんだよ」突然うしろから、僕たちの会話を時田が割った。「それは愛じゃないぞ」

 どうやらこちらの話しを聞いていたらしい。時田はバックヤードから出てくるなり僕を押しのけて、彼女の前に腕を組みをして立つ。なんだか懐かしかった。本人は凄んでいるつもりかもしれないけれど、相手を得体の知れない生物や犯罪者とでも思っているのか目が泳いでおり、自信のなさを隠せていない。

 これは波乱がありそうだな。そんな予感を覚えてレジの向かいに視線を移してみれば、彼女はしばらくのあいだ時田の顔を睨みつけたのち、なにも言わずにそっぽを向いて店の外へと出て行ってしまった。

 いったいなんだったのだろう。とりあえずは、事情を知る数少ない友人の時田の登場により、僕は窮地を脱することができた。はらわたの煮えくり返るような怒りも、足もとが崩れ落ちてしまいそうな不安も、いつのまにかどこかへと霧散している。もしかすると時田は、僕を助けてくれたのかもしれない。

「なんつうか、ずいぶんとセクシーな女だったな」

 冗談だろうか。僕は時田のもらした感想を疑問に思う。べつにひとの趣味をとやかくいうつもりはないけれど、綺麗な女性だったとはいえ、あの軽薄さを伴う美貌から自慰に連想されるほどの性的な魅力を感じたのだろうか。いずれにしても、この時田の意見だけは、僕はどうにも共感することができなかった。

 レジに残されていたミネラルウォーターを片づける。時田にありがとうと伝えるのはなんだか照れくさいので、なにかお礼の品でも渡してやろうかな。そんなことを考えながら、僕は自動ドアへと消えていった彼女の残像を無意識に追いかけていた。夜を背にしたガラスの表面には、瘦せこけた身体の頼りない姿だけが、半透明となって映っている。

 どうして固いものは透明なのだろう。

 ガラスとか、氷とか、アクリル板とか。

 ふと、関係のない疑問が脳裏に浮かんだ。

 たぶんそう、心とか、愛とか、絆とか、そんなことを考えていたんだと思う。

 きっと奴らには色が無い。

 無色で、透明で、硬質で。

 壊れるときはいつだって、無数の繋目と、複雑な境界線を作り出す。

 バラバラになって、粉々になって、散り散りになって。

 夏と冬。

 昼と夜。

 空と海。

 太陽と月。

 それから、妹と。

 一年前、犯罪とは無縁だったはずのこの街に凄惨な監禁事件が起きた。箝口令のような規制が敷かれていたのか、ニュースやネットなどには一切が取り沙汰されておらず、いまだ犯人も捕まっていない。あの混乱を撒き散らしながら玄関に這いつくばる肢体は、人間と呼ぶにはあまりにも残酷な様相を呈していた。


 ――事件の被害者は、僕の妹だった。

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