第6話
かなり遅い時刻となって、やっと夕食が出来たらしい。どうやら、シェフすらスタッフの一員として客からの問い合わせ等に駆り出されているようだ。客が出歩くのも危険だろうからと、レストランは全て閉じたため、以降は全ての食事が各室へ配膳となった。今宵の夕餉はフレンチトーストにベーコンである。レストランの料理よりも随分と質素になってはしまったが、パンは牛乳と卵でまったりと仕上げられ、バターで焼いた表面は香ばしい。そこにたっぷりと黄金の蜜をかけると見た目にも輝いて美しい。ベーコンは火の通り具合が絶妙で、塩気がしっかりと利いている。パンとベーコンの食感と味の違いが楽しめそうである。現に、理人がそんなことをぼんやり思っている内に、陽希が銀食器でガッガッと豪快にフレンチトーストを切り、大きく開けた口に運んで、歓喜で頬を真っ赤にしている。理人も遅れて口に運んだが、矢張りジューシーで美味しい。思わず小さく「美味しい」と漏らしてしまうほどだった。糖分は脳の栄養になるらしいから、有り難い。
しかし、水樹は余り食が進んでいない様子で、それを見ると、陽希も銀食器を置いて真剣な顔に戻ってしまうのだった。
理人がもう一度、二人に何かあったのか問うてみようと、口の周りを拭いてから、声を発しようとした、その瞬間だった。
ドアをノックする音が飛び込んで来たのだ。
連続四回、コンコンコンコン、と軽く打たれるのを、二セットほど聞いて、理人は水樹と陽希とアイコンタクトしてから、軽く頷き、ドアを開けた。
ドアの外に立っていたのは、ゾーイだった。ドアを開けるなり、極めて追い詰められた、今にも張り裂けそうな顔であることは分かった。胸の前でぎゅっと両手を握り締めて肩をいからせて緊張している。
「少し、皆さんにお話ししたいことがあります」
「どうぞ、おかけになってください」
理人は椅子を引き、手で其処を指し示した。
「ゾーイさん。どうなさいましたか」
水樹が声をかけたが、ゾーイは胸の前で両手を握ったまま背を丸めてじっとしたまま、動かなくなってしまった。緊張や恐怖などから、すぐには話せないのだろうと察したのか、
水樹は、すぐにルームサービスでデザートを頼んだ。
届いたデザートは、バームクーヘンを重ねて、フロマージュブランクリームなどが挟まれたケーキであった。恐らくは生地から焼く時間と人手が足らなかったのだろうが、とてもおいしそうだ。
ゾーイは遠慮していたが、水樹たち三人の探偵が一斉に勧めると、やっとそれをナイフで一切れ切り取り、フォークで口に運んだ。理人も同じくする。すると、しっとりとしたバームクーヘンの中から、フロマージュブランクリームとフルーツの甘酸っぱさが滑らかに蕩けだす。ゾーイは、睫毛を伏せてそれを味わっていた。パイナップルやキウイなどのトロピカルフルーツが入っている。ディンブランを飲むと、その森のような芳醇な香りと深い渋みが口腔に広がり、バームクーヘンと相性抜群である。
気持ちが少しだけ落ち着いたのか、ゾーイがやっと、紅茶のカップの縁から黒い口紅を拭い取って、静かに声を出した。
「実は……今日の演奏の内容は、急遽、この船旅が始まる直前に変更になったものなんです」
「それは、曲目が変更になった、ということですか?」
理人の問いに、ゾーイは理人を振り返って、オブシディアンのような目で見詰め返して頷いた。
「この船で演奏するよう御依頼を請けてから、船旅が始まる前日までは、ナディアはラヴェルの『鏡』から『蛾』を弾く予定でした。しかし、子供向けに、少し子供にも耳なじみのある曲の方が良いだろうという話が持ち上がって……船に乗る前でしたから、準備もまだ間に合うと、ナディアが納得してくれました」
「その、曲目変更の話をし始めたのは、ナディアさんですか?」
水樹が指を組んで、その上に頭を置いて、真剣な声で問いかけると、ゾーイは驚いたように肩を竦めて、それから小さく頷いた。
水樹が「やはりな」とつぶやいたので、またゾーイはびくりとして、不思議そうに首を傾げるのだった。
ゾーイが帰ってから、理人は、水樹の熱心な様子を見守っていた。スマートフォンを使い、必死に検索する様を。彼が調べているのは楽譜である。
そうして、急にテーブルにスマートフォンを置き、立ち上がってその脇に両腕を突き、画面をのぞき込んだ。そして、手に入れた楽譜をくまなく見て、ふっと息を吐く。
全ての謎が解けた瞬間である――ただ、水樹本人の変化の謎を除いては。
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