彼岸の声

森沢

第1話 珍しい客

 庭先で鋏を手に屈みこんでいた芳郎よしろうは、客だと叔父に呼ばれ驚いた。

 よほど近づかない限り、物の輪郭しか見えない目をこらし、日当たりの悪い腐りかけた縁側を這いあがる。

 先に通された客は、膝をついた芳郎が不格好に床に座るのを待っていた。


 彼女は不思議な雰囲気を漂わせ、叔父と目が合うと、深い琥珀色の瞳で微笑む。叔父は困惑しながらもその美しさに見とれ、違和感とともにある凛々しさにたじろいだ。

 叔父夫婦が営む飯屋も客足が鈍る夕前であり、叔父もその場に座る。


 訪ねて来た女は、彼女の故郷に伝わる、ある文章を芳郎に読み上げて欲しいのだと言う。

「ある文章」

 日当たりの悪い縁側に珍しく差し込んだ日の光が、芳郎の半分閉じた瞼に少しの暖かさをもたらす。

 この唐突で不審な来客があるまで、芳郎は庭で鉢植えの手入れをしていた。


 手入れが細やかで、整った形に花芽がよくつくと、飯屋を訪れる客の目を楽しませ、時おり欲しいと言う人がいると叔父から聞く。

 誰が育てたかは大っぴらにしていない。芳郎の名が出れば、気味が悪いとたちまち悪い噂がたつからだ。

 飯屋の店先に鉢を置き客の目をひくことは、表立って働けない芳郎が、叔父に唯一できる恩返しだった。

 芳郎をいつも遠巻きにし、チクリと嫌味をいう叔母も店先の花には口を出さない。

 

 芳郎の目は明るさや、物の輪郭を見ることはできるが、離れた人の顔や文字など細かには読み取れない。草木や土の甘い匂いを感じ、庭で花を育てることが少ない楽しみだった。

 そんな取り柄のない自分を誰かが訪ね、しかも頼みごとをするなど、今まであり得ない。

 女の声に耳を傾けながら、いったいこれはどういうことかと、奇妙な依頼を訝しがった。

「しかし、あんまりにも突拍子のない話なもんでこっちとしては、なあ芳郎」

 唯一の味方であり同じく困惑した叔父も、やんわり断ろうとしているのが声色でわかる。

 どちらにせよ。芳郎の通せる意思はない。

 

 布地が擦れる気配がし、女がこれは「前金」だと、何かを床の上にすべらせた。それがどれぐらいか見えないが、叔父が息をのんだことで、かなりの高額だとわかる。

 生活の面倒をみてもらっている身としては、報酬が貰えるならそれは叔父に渡すものだ。

 

 臆しない女のどこかひんやりとまとう空気は、これまで感じたことのないものだ。

 おかしい。朗読するだけでお金を払うなど。

 しかし、その奇妙な依頼をされる心当たりも、……無いことは無いのだ。思い当たるのは、芳郎が得体のしれないものを呼び寄せる声を持っているせいだ。

 周囲に疎まれ不気味がられるこの声が、依頼に関係があるのか。

 

「あなたは、どちらからいらしたのですか」

 芳郎は自身の声が広がらないよう、慎重に囁き尋ねた。

「北の国から流れて、この町へ」

 女が答える。

「故郷から伝わる詩には、特別な力があるといわれる。ただし、どのものが読み上げてもそれが起こるわけではない。けれど、きっと」

 期待で満ちた声色に、芳郎は背中がむずむずとした。

「あなたの声が私を導くだろう」

 その宣言に叔父と二人、ぎくりとしてしまう。体がこわばる。ああ、この女は何か知っているのだ。不気味で忌まわしい芳郎の声の力を。

 息苦しくなった、再び日の陰った部屋で、女だけが薄い笑みを浮かべていた。

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