十七で越えた母の背中

青海夜海

僕と君と雪と背中

 公園で見かけた君は泣いていた。雪が降りしきる中、膝を抱え裸足は痛そうにすすり泣く声が僕を見つける。六歳の僕と変わらない女の子が気にかかって声をかけた。


「大丈夫か?」


 君は頭を横に振る。

 どこかいたいの? お母さんは? どうして泣いてるの?

 君は頭を横に振るだけ。どうすればいいのかわからなくて僕も君の隣に座って雪にうもれた。走り去る自転車。ガタンと音を鳴らした自販機。慌てて仕舞い込む洗濯物。灯油販売の音楽。なのに僕と君は二人きり。


「どうして……帰らないの?」


 顔を上げた君の鼻は真っ赤。僕は言った。


「泣いてる子にはやさしくしてあげなさいってお母さんがいってたから」


 君は眼をパチクリさせて前を向く。その頬は青く腫れていた。


「おうちに帰りたくない。ずっとここにいる」

「さむくて死んじゃうよ」

「さむくないもん」

「からだふるえてる」

「ふるえてないもん! ……くちゅん!」

「ほら帰ろ」


 君は嫌だと膝に顔をうずめる。僕らは静けさにうもれていく。鼻をすする君だけが鮮明で青く見えた。上着を着ていない君に僕のジャンバーを背中にかける。


「な、なに?」

「女の子がさむがってたらこうしてあげなさいってお母さんがいってた」

「……私さむくあい」

「鼻声になってる」

「ふん」


 どれだけそうしていたのか、夕暮れ五時のチャイムが鳴る。誰かがこちらに歩いてきた。


「真白、帰るわよ」


 弱弱しい声で女の人は君に手を伸ばした。君は恐る恐ると手を掴んで立ち上がる。


「真白と一緒にいてくれてありがとうね」

「いえ……」

「…………」


 君はお母さんに連れられて去っていく。君は僕を見ていた。僕も君を見つめていた。

 もしもこの時、君の手を僕が掴んでいたら。君を笑顔にできたのかな。



「親からの暴力。ご飯を食べさせてくれない。家から追い出される。家庭で苦しい思いをしている人を見かけたらここに連絡してください。絶対に助けますから」


 DVについての講演会。防災頭巾をお尻に敷いて寒い体育館で体育座り。配られたカードには大きく電話番号と虐待防止。教室に戻るとみんな笑って両親の愚痴を言っていた。

 虐待はお母さんが僕を叱るのとは違うのだろう。虐めと似ていると思うと大人に対して少し失望した。



「やめてェェ!」


 女の子の大きな声にびくっとなった。右道から聞こえた大声。僕はなんとなく走った。


「いいから来い! 俺に歯向かうな!」

「嫌だ! やめてっ」


 髪の長い女の子が大人の男に腕を掴まれて無理矢理引っ張られていく。そのままボロアパートのドアが閉められた。それでも凍えた心臓は微かな女の子の悲鳴と男の怒声を感じ取った。脳裏に浮かんだのは『虐待』。

 僕は二階へと階段を駆け上り件の部屋の前まで行く。不思議と荒い呼吸を呑み込みながらドアノブに手をかけ。


「きゃっ!」


 中から女の子がドアに背中をぶつけて転がり出てきた。その頬には赤と青の腫れ。


「ごちゃごちゃ酒を我慢しろだの、誰のお陰でお前が暮らせてると思ってんだ? 俺のお陰だろが。餓鬼の分際で親に口答えすんじゃねー!」


 その男の手には酒瓶。ぐぃっと煽るとゲップを吐いた。赤らめた顔と赤くなった拳。女の子はお腹を押さえて僕の靴を掴んだ。


「た、すけて……」


 その声を聴いて僕は君だと気づいた。三年前に出逢った冬の公園の女の子。瞬間、僕の中の何かがはち切れ、僕は大声を上げて男に飛び掛かった。


「やめろぉおおおおお!」

「んだこの餓鬼!」


 ぶつかり倒し拳を振り下ろす。ゴツンと痛い音。痛い拳で何度も振り下ろす。


「あぁあ、あああああああああああ‼」

「てめっ!」


 左頬を殴られて僕は呆気なく吹き飛ばされた。鼻血塗れの男は立ち上がり怪物の叫び声をあげながら僕へと酒瓶を振り下ろそうとして。

 甲高く重い音が響き渡った。僕の足元に男が頭から血を流して倒れる。顔をあげるとあの日、女の子を迎えに来たお母さんが肩で大きく呼吸をしていた。皺と隈の増えた白い顔のその人は僕と女の子に笑って言った。


「ごめんね」




 中学生になった。新しい環境にも可愛い女の子には面白いクラスメイトにも興味はない。退屈な授業。先生に当てられて答える。誰かが間違えてくすくす笑われていた。

 放課後、家とは真逆の方向に歩きDIYで作った長椅子一つの空き地。そこに君はいた。


「おはよう駿くん」

「おはよう真白」


 春なのに君は今日も手袋をしている。


「学校楽しかった?」

「あんまり。早くここに来たかった」

「私も。駿くんが私の学校にいてくれたらいいのに」

「僕もそうしたい。高校は一緒の所に行こ」

「うん。あと三年かー。長いね」

「きっとすぐだよ。嫌なことを無視して適当に勉強してここにくれば一瞬だよ」

「駿くんとの時間は一瞬なのに、学校は長い。行きたくないな」

「ならサボる?」

「……ううん。負けたくない」

「そっか……。なんかあったら呼べよ」

「うん。ありがとう駿くん」


 ずっと一緒にいることはできなかったけど。


「夏休みなにしたい?」

「バーベキュー。お肉食べたい」

「あとは?」

「海とかプールは嫌。でも浴衣は来たいなー」

「いいじゃん着ようよ。十七の夏は一度だし」

「……うん、着れたらいいな」


 寂しさも痛さも分かち合えなかったけど。


「もうすぐ受験だね。一緒の高校受かるといいね」

「大丈夫だって。たくさん勉強したし」

「うん。そうだね。でもいいの? 私の行く高校で?」

「高校なんてどこでもいいよ。真白がいればそれでいい」


 それでもこの瞬間がすべてで、僕たちは幸せだった。




「うわ、犯罪者の子供じゃん」


 とある男子生徒が真白を見て指を差した。まるで嘲笑うように。


「あいつ同中なんだけどあいつの父親、母親に殺されたんだぜ。家族殺す親とか信じられねー。おまえもその内、人殺すんじゃね」


 男子生徒のバカ騒ぎが伝染する。奇異の視線が真白に突き刺さり、名前を検索してわざとらしく大声で事件を読み上げる。


「マジで最悪。おまえがいるなら違う高校にすればよかった」


 君は唇を噛んで必死に堪えていた。君の痛みを初めて僕は知れた。だから、僕はその男子生徒を殴った。


「ふざけるな! 真白は悪くない! 犯罪者の子供だから犯罪者なんてどうかしてる」

「実際そうだろっ! 離せよ!」

「なら、おまえの親も屑だな。人を貶めて嗤う屑ってことになるな」

「おまえぇええ!」


 僕は男を殴った。殴られて殴り返す。君が僕を呼ぶ声が聞こえるけど、この激情は収まらない。本当に僕らの人生はどうかしている。



 高校生活は窮屈だった。一緒の学校に通えると喜んでいたのが夢だったかのように、ずっと雪は降り続いている。

 クラスの違う君は僕を見て下手くそな笑みを浮かべるようになった。口癖は「大丈夫」。僕が君をそうさせてしまった。これじゃああの父親と変わらない。僕はもう誰も殴らないと決めた。

 標的はいつの間にか僕になっていた。入学式に生徒を殴った不良。それが僕らしい。だから、僕が君に関わると君を見る目は更に厳しくなっていった。上級生に体育館裏に呼び出されて殴られて金を盗られた。


「犯罪者を庇うってことはおまえも犯罪者ってことだよな」


 どうかしてる。反撃すれば僕だけが悪者にされ軽蔑の眼差しが突き刺さった。陰口が増え殴られても何もできなくて君を心配させてばかり。いつしか僕だけが悪者扱いされ、君への悪意は薄れていった。なら別によかった。けど、君と一緒にいることはできなくなった。

 居心地の悪い授業をサボる。退屈な一日。下手くそな笑みを浮かべる君を眺める二年生。眼の合わない日々はどこまでも空虚で、高校生になって何が変わったのだろうか。僕には何一つわからないまま、君と疎遠になっていった。

 灰色の空に煙が昇る。気を紛らわせるために買った煙草。ライターが温かい以上に感慨はなかった。


「見つけた」

「…………」

「たばこ、似合わないよ」

「知ってる」


 君は困ったように笑みを浮かべようとして、白い息を吐いた。


「ねえ、どっか行かない?」

「学校だろ」

「そっちだって」

「……僕と関わっていいの?」

「…………ん」


 君は僕に手を差し出す。煙草が欲しいのかと残り一本を手渡す。君は溜め息を吐いて僕の手を無理矢理掴んで立たせた。


「笑顔って疲れるね」


 雪だね。雪だな。どこへ行こうか。どこへでもいいや。なにそれ。君とならどこへでも。じゃあ、ここじゃないどこかにいこ。ふたり一緒に。ね。


 高校卒業と一緒に僕らはこの町を出た。互いの両親からのささやかな祝い金でボロボロの小さなアパートの一室を借りた。必要最低限な物を実家から運び、八畳ワンルームの質素な部屋に僕と君はおかしくて笑った。

 高卒で雇ってもらえる就職先を探し、君はスーパーの店員。僕は工場で働き始めた。アルミ製品のピッキング作業が僕の主な仕事。指示書に書かれた製品の数を間違えたり、別の所に運んでしまったりと慣れないことも多くたくさん叱られたりもした。


「ただいま……」

「おかえり」


 君が台所に立って出迎えてくれるのが僕の頑張りになっていた。


「ただいまー」

「おかえり」


 君が遅い日は僕が台所に立つ。君は僕のエプロン姿を見ていつも笑った。味のイマイチな肉野菜炒めを二人で他愛無いことを話しながら食べた。八畳真ん中のテーブルを端に退かして布団をふたつ並べて敷く。


「なんだか家族みたい」

「うん、家族みたい」

「私、誰かと一緒に寝るのお母さん以来」

「それ、この前も言ってた」

「時々思うの。あの日、私が逆らわなかったら違ったのかなって」


 君の手が僕の手を握る。


「お母さんは捕まらなくて、私も殺人者の子供にならなかった。虐められなくて、もしかしたら少しだけでも学校が楽しかったのかなって」

「……それを言うなら僕のせいだよ。真白を困らせてばかりだ」

「ばか。……駿くんは優しすぎる」


 君は僕にぎゅっと抱き着いた。心臓がうるさいねと君が笑う。触れてと言われて触れた君の胸は柔らかくてドキドキしていた。高い体温が君を色っぽく魅せた。


「ねぇ、私たち家族になれる……」

「なれるよ。ううん、なろう家族に」

「うん!」


 重ね合わせた唇はかさついていた。けれど、愛おしいと思うほどの幸福がそこにあった。



 二十歳を迎えた。充分に慣れた仕事。上司との付き合いも多くなりお酒に強いことも知った。けれど、付き合い以外には絶対にお酒は飲まなかった。

 君はオシャレをするようになった。綺麗な君がより綺麗な姿で僕の前でランウェイの真似をする。このボロアパートには不釣り合いの美しさだ。



 二十二歳。僕が倒れた。というのも気づいた時には病院のベッドで寝ていて君はボロボロと涙して「よかった」と痛そうな笑みを浮かべていた。「ごめん」と謝ると君は首を横に振った。

 医者によると貧血と疲れが原因らしい。


「心配してくれてありがとう。もう大丈夫」


 君は僕の腕に額を押し付けて噛み殺して泣いていた。君を泣かせたくない。君には笑っていてほしい。ずっと大きな愛情が芽生えて健康に気を付けると言った。君は頷いた。



 二十三歳の四月の春半ば。


「妊娠したみたい」


 君は驚いていた。僕も驚いた。声がでなくて口パクでほんとと訊ねると君はししおどしのようにカコーンとコクリ。


「えっとあっと、えーと、そのやったな!」

「う、うん。……やったよ」


 なにがやったよなのか。二人しておどおどしておかしくて緊張の糸が解れて僕はその場に尻もちをついてしまった。


「明日、もう一回検査するから付き合ってもらえる?」

「う、うん。工場長に相談してみる」

「ありがとう」


 お腹を撫でる君。ふと描いた夢想がすぐそこで手を振っていた。



「妊娠六週目ですね」


 君のお腹はアバラが見えそうなくらいに細い。けど、そのお腹の中には確かに赤ちゃんがいた。


「これからお母さんの体調がすぐれないことも多くなってきます。その時は無理をしないように。お父さんもしっかり支えてあげてください」

「はい」


 僕らは今後の生活について話し合った。お互いの職場に報告をして育児休暇も視野に入れながら無理せずに過ごすこと。


「私……お母さんになれるのかな」


 不安そうな君を支えるのは僕の役目だ。


「大丈夫。僕も頑張るから」



 君の体調ははっきりと妊娠の症状を露わにしてきた。


「ごめん……たべたくない」


 君が食べられそうなものをネットや職場の人に聞き回って鉄分やビタミンにタンパク質やカルシウムを摂取できるもの。雑炊やヨーグルトにした。


「うぇぇ……はぁはぁ、ゔっうぇぇぇ」


 君の背を撫で続けた。湯たんぽを用意する。家事はなるべく僕がやるようにした。

 妊娠十九週目。エコー検査の結果子供は女の子だとわかった。


「女の子だって。きっと真白に似て美人になるね」


 君は頷くだけでその日はあまり話してくれなかった。

 その夜、君が僕の手に爪が喰い込むほど強く握ってきた。その手、その身体は震えていた。


「私っ……こわいの。お母さんになるのが怖い」

「どうして?」

「だって! お腹の子、女の子だった。私、ちゃんと育てられるか、こわい。だって私」


 もしも、あの日、初めて出会った日。君の手を取っていれば。あの日の君は大人になった。それでも変わらない君に僕ができること。あの日掴めなかった変わりに今の君を僕は抱きしめる。


「大丈夫。真白ならちゃんとお母さんになれるよ」

「なんで言い切れるの? 私のお母さんはお父さんを殺して、お父さんはろくでなしで」

「君のお母さんは僕と真白を守ってくれた。君はろくでなしのお父さんに抗った。君だけは知ってるはずだ」

「で、でも……私も同じになっちゃったら」

「その時は僕が助ける。今度こそ君とお腹の子供を助けるよ。だから自分じゃなくて僕をせめて。僕に当たって。僕に頼って。僕が頑張るから」

「駿くん……あぁあああああああああ」


 君は子供のように泣いた。僕は今度こそこの涙を守ってみせると心に誓う。



 陣痛の進行期に入り六日前から病院に入院している君に大丈夫と言われて少し仕事にでかけた。ほんの二時間程度の急遽の作業を行っていると、病院から電話がかかってきて僕は同僚の車に乗せてもらって病院に駆け込んだ。受付で看護師さんに分娩室へ案内される。中に緊張しながら入ると君のふんばり声がドクンと心臓を跳ねさせた。


「お父さん。お母さんが落ち着けるように手を握って声をかけてあげてください」

「は、はい!」


 君の手が掴み取るように僕の手を掴んで僕は力を込める。


「真白! 大丈夫だよ。大丈夫だから!」

「ひーひーふー。ひーひーふー」


 十時間を超える陣痛との戦い。君は僕の手を離さなかった。そして、分娩第二期に入り、いよいよ出産。君の痛がる声に比例して強まる握る手。短く呼吸を繰り返す君に僕は声をかけて汗を手ぬぐいで拭う。

 そして――おぎゃぁあ、と。


「無事に産まれました。元気な赤ちゃんですよ」


 君は肩で息をしながらおくるみに包まれた赤ちゃんを優しく抱いた。


「…………私、お母さんになったんだね」

「ああ。頑張ってくれてありがとう」

「うん。可愛いね。……可愛いね」

「ああ。可愛いな」


 僕と君は今家族になったんだとようやく実感したのだった。



 冬が流れて春が歌い夏が駆けていき秋が呼ぶ。

 君と出逢った冬。君と家族になった冬。君との子供が産まれた冬。降り注ぐ雪は柔らかかった。


「おとうさん! おかあさーん! はやくはやく」

「真冬。待って」

「元気だなこんなに寒いのに」

「そうだね」

 五歳の真冬。僕と君との子供。元気でよく笑う君によく似た女の子。

「真冬、手を繋ごうか」

「うん!」

「お母さんも、ほら」

「…………うん!」


 僕らは三人手を繋いで歩く。

 これからもずっとずっと。あの日握れなかった手を握って、二度と離さないように。

 雪の白さで笑みを描きながらずっと。

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十七で越えた母の背中 青海夜海 @syuti

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