坂の上の古民家
美琴
第1話 麦わら帽子 1
僕は、長野駅で新幹線を降り、帰宅途中の高校生で混みあう四両編成の信濃鉄道に乗り継いだ。停車駅ごとに、ごっそりと乗客は降り、目的地の駅に着くころにはぐっすりと眠りこむ初老の男性と僕の二人きりになっていた。
ホームに足を降ろすと、山からの心地よい風と、草の香りが僕の到着を歓迎してくれる。六月下旬の夕方。東京を出たときは額の汗を拭いながらホームを歩いていたのに、里山の気温は、二十度を切っていた。薄暗くなった人気のないホームをぐるりと見回す。人気は無い。
迎えを頼んだ弟の樹との待ち合わせは駅から歩いて五分ほど離れた温泉施設だ。この地区の財政にゆとりがある様に見えなかったが、町が運営するデイサービス付きの温泉施設はモダンな造りでまるで美術館の中でも散歩しているようだ。広いロータリーを見回すと、一台の車がフロント近くでハザードを炊いて停車している。
「よっ。おかえり。」車とは反対の後方から、懐かしい声がして振り返る。兄の樹だ。街灯も少なく薄暗い駅のロータリーでも、彼の表情はいつも通り柔らかく朗らかだった。車の鍵がついたキーホルダーを指に入れてぶんぶんと振り回している
「ただいま。お迎え、ありがと。」
「おう。久しぶり。みんな、首を長くして待っているよ。」
樹の運転するトヨタシエンタの助手席に乗り込む。車を買い替えたのは大分前だったはずなのに、まだ新車の匂いがしていた。
シエンタは閑散とした駅前通りをあっという間に通り抜けた。夕方だというのに車の少ない国道を疾走し、まもなく山道を登り始める。街灯の数が段々と減っていき、樹はライトをハイビームに切り替えた。ライトに照らされて目の前に映し出されるのは、鬱蒼とした樹木だけだ。高性能のスピーカーから流れてくる洋楽が耳に心地よかった。
「なぁ、兄さん。今回はゆっくり出来るんだろう?」
樹は視線を前の道路に向けたまま静かに聞く。
「そうだね。。。今回はしばらく居ることになると思う。」
「良かった。今度久しぶりに飲もうよ。いつも話すタイミング殆ど無いからさ。」
「うん。たまにはいいよな。こうやって実家でゆっくり出来るのも。」
道がまっすぐになったタイミングで、樹がちらりと僕を見た。
しばらくお互いの近況についてゆっくり話し合った。樹の子供がもう3歳になりそろそろ幼稚園にあがること。奥さんも仕事を続けたいのでこれからの子育てに不安を感じていること。どの話も僕にとっては遠い世界の話で、耳には届いても頭に入ってこない。
樹はしばらく話したのち、おそらく自分の打つ相槌が微妙にそっけないことに気付いたのだろう。ハンドルから左手を離し、軽く僕の肩を押した。
「なんだよ、浮かない顔だな。。。いいじゃないか、久しぶりの休暇なんだろう。ゆっくりしていって。」
僕は肩をすぼめて、苦笑いをすると何度か首を縦に振った。「そうだね。ゆっくりできるといいんだけど。」
樹はもう一度ちらりと助手席の僕を見ると、緩やかにハンドルを切って山道のカーブを曲がった。
ほどなくして山道を出ると、視界が一気に広がる。その日は、満月が道路の両脇に広がる田園を照らしていた。その先の暗闇の中に、ポツポツと民家の灯りが見えてきた。黒瓦の屋根にも月の光が反射していて美しかった。
目黒区の自宅マンションを出発、新幹線とローカル線を乗り継ぎ、2時間半。半年振りに帰省する集落の灯りは、以前より少なくなっていた気がした。
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