第19話 笑顔で近付いてくる者には気を付けることだ

 ベアータは口許に微笑みを浮かべていた。

 笑顔であるにも関わらず、感情というものを一切、感じさせない不思議な顔だ。


 その時、アマーリエの脳裏を掠めたのは以前、ビカンに注意されたことだった。


エミーアマーリエ。君の長所は素直であることだ。素直なのは悪いことではない。だが、気を付けたまえ」


 ビカンは口角を僅かに上げると意地の悪そうな微笑みを浮かべながら、言った。


「笑顔で近付いてくる者には気を付けることだ。笑顔は毒であり、薬である。剣であり、盾である」

「難しくて、あたしにはよく分かりません」


 アマーリエがそう答えると意地が悪そうな笑みを浮かべたまま、彼女の頭を髪がぐしゃぐしゃになるまで撫でた。

 折角、きれいにセットされていた髪型が台無しになったとアマーリエが、気にしているのを他所にビカンは話を続ける。


「笑顔を浮かべ、近づいてくる者は後ろ手に何かを隠しているものだ。大きく分けて、二種類いる。覚えておくといい。花束を隠しているのは心優しき者だ。この者は心が善に傾いている。そうすることで他者に幸せを与えようと考える者もいれば、身を守る手立てとして、無意識にそうする者もいる」

「じゃあ、花束を持っている人はいい人なんですか?」

「いい人ではあるかもしれん。だが、いい人である自分が好きなだけかもしれないな。それでも……」

「でも?」

「後ろ手にナイフを隠している者こそ、気を付けたまえ。彼らは安心させようと笑顔を浮かべ、近づいてくる。油断したところをこうだ」


 ビカンは自分の喉元に親指を当て、鳥肌が立つような不穏な仕草をした。

 喉を搔き切る仕草とは詰まるところ、処刑を意味している。


「彼らは己の欲を満たさんが為に張り付けたような笑みを浮かべ、こう言うだろう。『私があなたのことを一番知っている』『私だけがあなたの味方です』とな。だが、決して信じてはいけない。よく覚えておきたまえ」


 ベアータの張り付けたような笑顔と言葉は、ビカンが言っていた通りのものに他ならない。

 アマーリエははっきりと確信した。


 しかし、ビカンの話が全て、信じられる訳ではないことも理解している。

 笑顔であるという点ではビカンも同じだったからだ。


(自分のことも信じるなと言いたかったんでしょ、先生)


 アマーリエは軽くかぶりを振ると己の考えをまとめることにした。

 だが今、この時だけはビカンの言葉を信じたい。

 彼女が導き出した答えはそれであった。


 思い返せば、不自然なことが多かったことにアマーリエは気付いた。

 自分が小さい頃から、ベアータは親切だった。

 優しく、それでいて本当姉のように接してくれた。

 しかし、時折、彼女が見せる妙な笑みと不快な視線は決して、気のせいなどではなかったことに……。


 今、はっきりと分かったのだとアマーリエは気が付いた。

 夜、部屋を抜け出していると密告したのはベアータで間違いないのだと……。


「それであたしがごめんなさいって、謝ったら終わり。あたしが悪者になれば、いいってこと?」

「お嬢様。意地を張ってもいいことなんて、ありませんから。ね? 今なら……」

「絶対に出てくったら、出てくんだから! ついてこないで」


 ベアータは一瞬、ギョッとした表情になり、驚いているように見えた。

 だが、張り付いた笑顔は変わらない。

 不自然なほどに完璧な笑みだった。


 目が笑っていないとはっきりと分かる。

 アマーリエは今まで、どうしてベアータに心を許していたのかと自らの迂闊さを呪った。


 そのまま、一切振り返らなかった。

 アマーリエはベアータの前から、逃げるように走り去った。

 ベアータはユスティーナと同じような舌打ちをが、今のアマーリエにとってそんなのはどうでもいいことだった。


(早く、エヴァエヴェリーナのところに行かなきゃ!)


 はやる心を落ち着かせ、アマーリエは駆けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る