第9話 それぞれの事情

 奇妙な出で立ちの老人だった。

 黒尽くめ。

 まるで夜の闇をそのまま、纏ったような漆黒で統一された装束ローブを着ていた。

 中でも異様なのは顔半分を覆い隠さんとする大きな三角帽子である。


「ふむ」


 老人の眼前にはチェック柄の遊戯盤が広げられていた。

 縦八マス。

 横八マス。

 その遊戯盤の上には白いピースと黒いピースがいくつか、置かれている。


 老人が手にしていた白いピース――剣を持った騎士を模した駒――を盤上に置くと黒い大きなピースが、一つ砕け散った。

 老人がその様子に満足したとでも言わんばかりに口角を上げると一陣の軽やかな風が吹いた。


 ふと顔を上げた老人の向かいに純白のゴシックドレスを纏った少女が立っている。


「お祖父様。アレは事故。だから、今回は目を瞑ってくれません?」

「ああ。仕方なかろうよ。だが、必要以上の干渉はいかん」

「分かっているわ」


 白金の色をした髪プラチナブロンドの少女が、大事そうに抱いている黒猫の喉を撫でると「みゃ」と一声鳴いて、黒猫が微睡む。

 少女も黒猫もともに紅玉ルビーのように光輝く、不思議な虹彩の瞳を持っていた。


「ルジェナが待っているから、帰るわね」


 再び、一陣の風が吹くと少女の姿は幻のように消え失せていた。


「全く、相変わらず慌ただしい娘じゃのう」


 老人のボヤキに答える者は誰もいない。

 ただ、盤上の白いピースが二つ、燦然と輝きを見せるだけである。




 その日、妹のユスティーナと登校したマルチナの心が晴れることはなかった。


 数日前、アマーリエが二階から転落して、怪我を負っていた。

 幸いなことに目立った外傷はなかったものの意識が戻らないままだった。


 アマーリエはマルチナにとって薬であり、毒だったと言える。

 自分を慕ってくるまだ、あどけなさが残った可愛い妹であるのは間違いない。

 だが、同時に貪欲に愛を求めようとするアマーリエのことをどこか、冷めた目線で見ているのも確かだったのだ。


 それでなくてもデビュタントが間近に控えており、心身ともに疲れている時に起きたアマーリエの事故はマルチナにも暗い影を落とした。

 長女として、母親がいない間は自分がしっかりしないといけないと思えば、思うほどに空回りをする。

 自分の気持ちに混乱していたのも大きかった。


 仲の良い友人に「心配でしょうね」と声をかけられるたびに姉である自分がもっと何か、してあげるべきだったのではないかと言いようのない不安と罪悪感に襲われていた。




 姉のマルチナと登校したユスティーナはその日、どこか不機嫌だった。

 妹のアマーリエも含めた三人で登校し、元気でおしゃまなアマーリエのうるさいくらいなお喋りに付き合わされる。

 それがユスティーナの日常だった。

 鬱陶しくも離れがたいという矛盾をはらんだ複雑な気持ちを抱いていた。


 その日常が失われた。

 行き場のない怒りを覚えているという自覚は彼女にない。

 ユスティーナにとって、アマーリエが可愛い妹であるのに間違いはないのだ。

 だが、どこか相容れないところがあり、事あるごとに衝突してたのも事実だった。


 ユスティーナは怒りを憤りへと変換させる。

 「あの子はまた、人の関心を引こうとしている」と憤慨することにした。

 それがどれだけ理不尽なことなのか、ユスティーナは分かっていなかった。


「あぁっ、もう! イライラする」

「ユナ! 集中しないと危ないぞ」


 魔法科に比べ、騎士科を選択する生徒は少数であある。

 騎士科の男女比は九対一で圧倒的に男子生徒しかいない。


 これは将来、騎士を目指そうとする者しか、騎士科を選ばないことが大きく影響していた。

 優秀な成績を収めた生徒は、優先的に騎士団への入団が認められるからだ。

 だが、例え優秀ではなかったとしてもだけでも実力を認めてもらえる。

 それほどに厳しいカリキュラムが組まれているのが騎士科である。


 実技を伴った授業が多いのも特徴で実戦形式の組手が頻繁に行われていた。

 その日も騎士科の生徒数が少ないゆえ、学年や性別を問わず、木剣を使った組手での実習が行われていたのだ。

 第二王子であるロベルトと侯爵令嬢であるユスティーナが、組手を行うのもさして珍しいことではなかった。


ロビーロベルトこそ、気が抜けてるんじゃないのっ!」


 腹立ちまぎれに目を三角にしたユスティーナが、低い姿勢から繰り出した突きを払いで難なくいなしたロベルトだが、それ以上の反撃はせずに間合いを取った。


「ユナ。こういう時は落ち着かないと」

「うるさいっ」


 困惑した表情を隠そうともしないロベルトと一方的にまくしたてるユスティーナの姿に周囲はいつもよりも酷いとは思いながらも誰も止めようとはしない。

 結局、授業が終わるまで一方的に絡み続けるユスティーナだったが、腹立ちは収まるどころか、悪化の一途をたどっていた。




 現在、十三歳のユリアンは宰相を務めるドゥシャン・ポボルスキーの三男として、この世に生を受けた。


 既に成人しており、父親の補佐として活躍する長男。

 騎士を目指し、実家を離れ、切磋琢磨している次男。

 その二人からはやや年の離れた弟ということもあり、ある程度の自由と言えば聞こえはいいが期待されることもなかった。


 ユリアンとは年子で妹のサーラが生れると家族の興味と関心はサーラ一人が受けるものとなる。

 しかし、ユリアンとサーラの仲が悪いということは決してない。

 むしろ気が弱く、頼りない兄を引っ張る気が強く、しっかり者の妹としてうまくやっていたのである。


「ねぇ、お兄ちゃま」

「どうしたんだい?」


 いつになく、元気のないサーラの声が心配になったユリアンが読んでいた書物から、目を上げると双眸を潤ませた妹の姿が視界に入った。


 本を投げ出し、慌てて妹のもとに駆け寄ったユリアンは彼女が、傷だらけの黒猫を抱いていることに気が付いた。


「猫ちゃんが怪我をしてたの」

「そうか。うん。分かった。おとなしく待ってるんだよ」


 ユリアンはべそをかく妹を椅子に座らせるとその頭を優しく、撫でてからどこかへと走っていく。

 暫くすると応急処置を行うのに十分な包帯や消毒液を手にしたユリアンが現れた。


「こういうのは得意なんだ。お兄ちゃまに任せて」

「うん」


 その言葉は嘘ではなく、手慣れた手つきで黒猫の傷を手当てし、器用に包帯を巻いていくユリアンの姿は普段、のんびりとした様子からは想像が出来ないほどにテキパキとしていた。


「ありがとう、お兄ちゃま」


 サーラの満面の笑顔にユリアンはその日、満ち足りた気分のまま、夢の世界の住人となった。

 そして、不思議な夢を見た。


 サーラが連れてきたあの黒猫が元気な様子で駆け回り、ついてこいと言わんばかりにユリアンを促す。

 首を傾げながらもユリアンが重い腰を上げ、黒猫の後についていくと黒猫が急に勢いよく、跳躍した。


 跳躍した黒猫を受け止めたのは一人の少女だった。

 ユリアンの記憶にはない少女だ。

 折りからの風に靡く、やや色素の薄い白金色の長い髪に幻想的な美しさを感じ、ユリアンが息をするのも忘れ、見惚れていると紅玉ルビーのような輝きを放つ四つの瞳に見つめられていることに気付いた。


 少女と黒猫の目だった。

 ユリアンは人知れず、大事そうに黒猫を抱いた少女の浮かべる花笑みを呆けたように見つめるしかなかった。


「彼を助けてくれたお礼よ? 魔法をかけてあげるわ」


 明くる朝、目を覚ましたユリアンは微かな頭痛を感じていた。

 頭の奥の方に感じる針を刺されたような痛みだ。

 しっかりと寝たはずなのに寝た気がしないのも不思議だった。


「『淑女レディへの子守歌ララバイ』って、なんだ? それじゃ、僕らは一体……」


 ユリアンの呟きは誰の耳にも届くことなく、室内の静寂へと消えていった。

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