死を告げる銀盤の精
藤宮藤子
死を告げる銀盤の精
2009年12月7日
夢を見た。まっさらな氷が一面に、地平線の向こうまでも続く場所。
もう少し向こうを見ようと目線を上げた瞬間
「...あ...」
目に映ったのは見慣れた部屋の天井。
いつもの起床よりどこか寂しい感じがした。
2009年12月8日
再び目の前に広がる広大な氷の土地。きっとロシアにある冬のバイカル湖がこんな感じなんだろう。
昨日よりも少し遠くへ進むことができた。
でも意識がふわふわとして非現実感が否めない。
やはり意識がはっきりした時目に入るのは見慣れた寝室だった。
2009年12月9日
また同じ場所、同じ世界。
意識が上がっていく感覚がするけれど、まだここにいたいと思った。
2009年12月10日
この場所の全貌がもう少し見えるようになっている気がした。
目をこらせばどうやら人のような影。
でもそれを追いかけようとすると目が覚めた。
2009年12月11日
その人影はまたそこにいた、なんとか追いついて肩に触れた。
触れた瞬間いつもの寝室だったけれど。
2009年12月12日
目を開けると目の前に同い年くらいの少年が立っていた。
「...名前は?」
「.......聖司....」
「せーじ...」
名前を聞き返そうとした瞬間、目の前に現れたのは焦った表情の弟、誠也。
「兄ちゃん!やっと起きた...もう朝練行けへんて」
「...は?今何時!?」
起き上がると既に7時前。
随分と寝坊をしてしまったようだ。
2009年12月13日
目を開けるといつもの場所。
いつの間にか、いつもの場所になっていた。
そしていつもの彼もいた。
「あの、名前は...」
「トーマ」
「トーマ...かっこいい名前やな」
「そう?」
特に喜ぶ素振りも見せず、トーマと名乗った彼は氷上を滑らかにでも優雅に滑り、イーグルのポジションで円を描いて再びこちらに来る。
「今日は待ってるよ」
その言葉の意味は分からなかった。
今日は霧雨スポーツセンターの近くに住む祖父母の家でテスト期間中の誠也の勉強が終わるのを待ってからリンクに行く約束をしている。
「...全日本控えてるから来なさい、やって。行くわ...」
「おー行ってら、すぐ追いつくわ」
コーチから来たメールに苦笑しながら荷物を持ち、祖父母の家を出た。
家を出てすぐ、数十メートル先に既に霧雨スポーツセンターは見える。
いつもの通りそこをめざして歩く。
昭和に建てられた家が並ぶ狭い住宅街の路地、その背後からトラックの音がした。
「おかえり、頑張ったね」
真っ先に聞こえたのはその声。
全身の痛みに氷の上に横たわったまま動けない。
無理に動こうとすると体が軋み、息をする度に口から生暖かい血液が溢れる。
「大丈夫?」
彼に手を引かれると、あらぬ方向に曲がっていた腕が真っ直ぐに戻った。
「立てる?」
それに応えると感覚すら無くなっていた足が軽く痛んだ後、自力で立つことが出来た。
意識が鮮明になる。
「汚れてるよ」
彼に口元の血を拭われるともう元の怪我のない綺麗な体に戻った。
「...行くよ、せーじ。得意なの見せて」
「...ん!」
やっとこの場所で滑れるのだと思って踏み出した時、今度は胸に強い痛みに走りその場に蹲った。
ものすごく強い力で押し付けられているような感覚。
しかし、どういう訳か分かってしまった。
生かすための痛みだと。
「...せーじ、君にはまだ...ここに来て欲しくない人がいるんだよ」
「...無理...無理.........」
「無理?」
「戻ったらもう、滑れんくなる...」
「...せーじはスケート上手いのに?」
「腕も足も折れた、多分肺にも心臓にも穴空いたからもう4分半も練習もしんどくて滑れへん...そんなん...俺無理」
「...ん、分かった」
彼は両手を広げる。
辛うじて立ち上がり、その胸に倒れ込むと痛みはなくなった。
「...悲しませるかな」
「知らない。せーじが自分で選んだ場所だべ」
「うん...スケートが出来なくなった五十嵐聖司なんて誰も好きにならんしな」
聖司は分かっていた。
世界中が、彼のスケートを求めていることを。
彼をひと目見るために何人が、どれくらいのお金が動いたのだろう。
ここに至るまでにどれほどの人間が彼のために尽くしただろう。
感謝している。感謝しているからこそ、スケートが出来なくなった体なんて持っていたくなかった。
スケートが出来なくなった自分に残るものがあるのか思い付かないのが恐怖で仕方ない。
この果てしなく続く空間で永遠に滑る、これ以上の幸せはきっとない。
ああでも強いて言うなら...
「誠也には、悪いことしたな...」
昨日13日の16時頃、車両との接触で意識不明の重体に陥っていたフィギュアスケートの五十嵐聖司選手が12月14日、午前5時30分に死亡が確認されたとのことです。
事故直後心肺停止に陥っていましたが、心拍を再開。
しかし午前5時頃に再び心停止となり、一度は延命を試みるも最後は両親の意向により延命処置を終了させたとの事です。
「なぁトーマ、今年のオリンピックのメダルって面白い模様入ってるらしいで」
「欲しかった?」
「んやー...いらん」
「金メダルよりいいものがあるよ」
「うん!」
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