2.クリスタとの出会い

 エクムント様はキルヒマン侯爵家の三男だった。

 侯爵家を継ぐことができないと分かったときに、エクムント様は士官学校に行って騎士になることを決めていた。騎士になるのはよいのだが、侯爵家の三男ともなると仕える家が決まってくる。

 エクムント様の将来を心配したキルヒマン侯爵夫妻は私の両親に相談した。

 それがちょうど私の生まれた頃で、まだ歩けもしない頃から私はエクムント様を知っている。


 士官学校から帰って来たエクムント様は私を抱っこして庭を散歩してくれた。前がよく見えなくなるので帽子が嫌いで、何度も帽子を手で掴んで投げ捨てる私に、エクムント様は辛抱強く何度でも帽子を被せ直してくれた。

 結果としてエクムント様の仕える先は我が家の公爵家となったのだが、そうなると私はエクムント様を呼び捨てにしなければいけなくなってしまった。


 心の中ではずっとエクムント様と呼んでいるのだが、表向きは主人の家の娘と仕える騎士なので、私はエクムント様を「エクムント」と呼び、エクムント様は私を「エリザベートお嬢様」と呼ばなければいけなかった。


「おかあさま、エクムントさまのこと、どうしてもエクムントさまってよんじゃいけないの?」

「以前はエクムントは侯爵家の子息として交流がありましたが、今はエクムントとお父様は部下と上司です。こういう関係性を見極めることができなければ、立派なレディにはなれません」

「おかあさま……」


 簡単に納得できることではなかったが、私は母の言う通りにした方がいいということだけは感じ取っていた。


 エクムント様のことは心の中でだけは様付けすることにして、普段は呼び捨てにしているのだが、母に厳しくされて庭に逃げてしまったときにはつい心の弱さが出てしまった。

 こういうことがないように母は普段から気を付けるように言っているのだ。


 エクムント様は私の専属の騎士というわけではなくて、交代制で数人が護衛についてくれる中の一人だった。あの日は偶然エクムント様が護衛の日だったのだ。


 ずっと小さな頃からエクムント様が大好きなのだが、エクムント様は私よりも十一歳も年上だから私は子どもとしか思われていない。早く大きくなりたいと思い始めたのは、前世を思い出してからだった。


 前世を思い出したからといって、私の根幹が変わるわけではない。

 父も母も私のことを大事に育ててくれて、愛してくれている。

 私はエリザベート・ディッペル。

 まだ六歳の幼児だった。


 美しい母と優しい父に囲まれて幸せに暮らしている。

 この幸せを取り上げられたくなければ、この物語の主人公、クリスタには絶対に関わらないことだ。


 しかし、お茶会の日、着替えて準備をしているとマルレーンが髪をブラシで梳いてくれながらとんでもないことを言ってきたのだ。


「今日は従姉妹君もいらっしゃるようですよ。エリザベートお嬢様が一番でしょうけれど」

「いとこが!?」


 私の従姉妹ということは、ノメンゼン子爵家のクリスタも来る可能性がある。

 クリスタに関しては、私はまだ会ったことがなく、前世で読んだ物語の中の登場人物としてしか知らない。

 溌溂として、素直で、曲がったことが嫌いな正義感溢れるクリスタ。母親がクリスタを産んだときに亡くなってしまったので、ノメンゼン子爵は後妻を迎えていたはずだ。

 後妻との関係は物語の中ではしっかりと書かれていなかったが、後妻の産んだ異母妹がクリスタを妨害しようとする場面はあった。


 クリスタが四歳ならば、後妻の子どもは三歳くらいだろうか。

 お茶会が荒れそうな雰囲気に私は心配になりながら靴を履いた。

 相変わらず靴の爪先と踵が硬くて足が痛い。

 艶々のよく磨かれた靴は美しかったが、私にとっては憂鬱なものでしかなかった。


 マルレーンに髪をハーフアップにしてもらって、お気に入りの空色のリボンもつけてもらって、空色のドレスと合わせる。足が痛いのが少し気がかりだったが、完璧な装いに私は胸を張ってお茶会の席に向かった。


 お茶会では皇太子のハインリヒ殿下とその兄のノルベルト殿下が来ていた。二人共お揃いのスーツを着ていて、ハインリヒ殿下が紺色、ノルベルト殿下が濃い緑色でシャツは白く、ボウタイもスーツの色に合わせてあった。


「ハインリヒ、おちゃをもらってあげようか?」

「あにうえ、おねがいします」


 ハインリヒ殿下とノルベルト殿下のご両親は来られていないので、護衛の騎士だけが一緒にいる。護衛の騎士を待たせてノルベルト殿下が食べ物の置いてあるテーブルに近寄って行く。ノルベルト殿下は銀色の髪に菫色の目だが、ハインリヒ殿下は国王陛下に似た黒髪に黒い目だった。


「あにうえ、あのこ……」

「おうきゅうにあるしょうぞうがとかみのいろとめのいろがおなじだね」


 できる限り関わりたくないとは思っているのだが、指差されてしまったのならば仕方がない。指を差すのは無礼なのだと両殿下に誰も教えていないのだろう。


「おはつにおめにかかります。ほんじつは、ディッペルけのおちゃかいにおこしいただいてありがとうございます。わたくし、ディッペルけのむすめ、エリザベートです」


 優雅に一礼して完璧に挨拶ができたと思った。私の後ろで父と母が私を見ているのが分かる。


「え、えっと、ノルベルト・アッペルです。はじめまして」

「ハインリヒ・レデラーだ! えっと、えっと、あにうえ、なんていえばいい?」

「おまねきいただきありがとうございます」

「あ、そうだ。おまねきいただき、ありがとうございます、だ!」


 二人とも慌てているが、ノルベルト殿下とハインリヒ殿下の方が私よりも身分は高いし、今日は子どもたちは無礼講とされているので咎められることはない。

 私とノルベルト殿下とハインリヒ殿下が挨拶を交わしたのを見て、他の子どもたちも近寄って来てノルベルト殿下とハインリヒ殿下、そしてこのお社会の主催者の娘である私に挨拶をしてくる。


 挨拶を一通り受けて一息つくために料理の並ぶテーブルに移動すると、そこにぱさぱさの金髪を結びもせず、地味な焦げ茶色のドレスを着せられた女の子がいた。

 年の頃は三歳か四歳か。

 テーブルの上に乗っている料理を手を伸ばして大皿から一心不乱に食べている。その腕も頬も痩せこけていて、目は落ち窪んでいる。


「あの……あなた、そんなにいっきにたべたら、のどにつまりますよ。のみものをもってこさせましょうか?」

「だぁれ?」


 声をかけた瞬間、明らかにその女の子が怯えた様子を見せた。私は給仕にミルクを持って来させながら、優雅に一礼をして挨拶をする。


「わたくしはこのいえのむすめ、エリザベート・ディッペルです。はじめまして」

「えり……? わたち、クリスタ」


 クリスタ!?

 あの美少女のクリスタがこの幼女!?


 物語の挿絵に書かれていたクリスタは豪奢な金髪を結い上げて、美しいドレスを着ていた。

 持って来られたミルクを口の周りを真っ白にして飲んでいるこの子がクリスタだなんて、私にはすぐには信じられなかった。


「クリスタ! 失礼を致しました」

「いやー! おばたん、ちらいー!」


 クリスタの手を無理矢理に引っ張って、ノメンゼン子爵夫人らしき人物が三歳くらいの子どもと一緒に部屋を出て行く。泣いて暴れるクリスタは明らかにノメンゼン子爵夫人を怖がっていた。


「おかあさま、おとうさま、わたくし、おてあらいにいってまいります」

「一人で行けますか?」

「誰かついて行かせようか?」

「だいじょうぶです」


 お手洗いに行くと言って廊下に出ると、わたくしはノメンゼン子爵夫人とクリスタとその異母妹らしき子どもを見失っていた。

 仕方なくお手洗いに行って髪を整えて、少し痛む足を靴を脱いで休ませていると、個室から声が聞こえた。


「なんてお行儀の悪い子どもなんでしょう! 私を公衆の面前で『おばさん』と呼ぶだなんて」

「やー! ごめんなたい! ごめんなたい!」

「ディッペル公爵の前で恥をかいたわ!」


 泣き叫ぶ声が聞こえて、そっと近寄ってドアの開いていた個室を覗くと、ノメンゼン子爵夫人が畳んだ扇を持った手を振り上げているのが見えた。

 振り上げた扇が振り下ろされる。

 捲り上げた袖に隠れる痩せた腕の部分には、いくつもの痣ができているのが見えた。


 声を出せないほど驚いてしまった私は反射的にそばにいるクリスタの異母妹を見た。異母妹は姉が叩かれて泣き喚いているのを見て、唇の両端を持ち上げて笑っていた。


 ぞっとしながら私はふらふらとよろけてお茶会の会場に戻った。

 父と母の顔を見ると安堵して涙が出そうになる。


「おとうさま、おかあさま、わたくし……」

「エリザベート、どうしたのですか?」

「顔色が悪いではないか。テレーゼ、エリザベートを別の部屋に連れて行っておくれ。エリザベートを休ませてやってくれ」

「分かりましたわ。後のことはよろしくお願いいします」

「分かっているよ」


 皇太子殿下も来ているというのに、母は私のために席を外すことを選んでくれた。

 父はさすがに席を外せなかったが、私を心配してくれている。


 別室に連れて行かれると私は母に縋り付いて泣いてしまった。


「エリザベート、何かあったのですね。落ち着くまでこの部屋で休んでいなさい。マルレーンを呼びましょう」

「おかあさま……」

「大事な話があるのでしょう? あなたが落ち着いて話せるようになったら、お父様と一緒に聞きましょう。今は温かい飲み物でも飲んで心を落ち着かせるのです」

「はい……」


 母がマルレーンを呼んでくれて、私は静かな別室で温かいミルクティーとクッキーを食べて心を落ち着かせていた。

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