エリザベート・ディッペルは悪役令嬢になれない

秋月真鳥

一章 クリスタ嬢との出会い

1.エリザベート、前世を思い出す

 幼い頃から母は厳しかった。

 六歳の子どもに社交界での礼儀作法を教え込み、経営学や政治学まで教え込もうとしていた。

 歩き方も、頭に乗せた本が落ちないように姿勢を正しく整えながら、床に引いてある線を挟み込むようにして歩く。

 硬い靴は六歳の子どもには痛くて、スカートの裾を自然に摘まむことができなくて、私は無様に床の上に転んでしまった。

 母は静かに私の手を取って立ち上がらせて言った。


「エリザベート、もう一度」

「もうできない……あしがいたいの」

「もう一度だけやってみなさい。もう少しで美しく歩けそうでしたよ」


 転んだときに脱げた靴を母が拾って履かせようとしてくれるのに、私は泣きながら庭へ逃げ出した。

 外は雨が降っていて、私は濡れながら近くの茂みに隠れた。

 遠くでメイドが私を探している声がする。


「エリザベートお嬢様ー! お戻りくださいー!」

「どこに行かれたのですか? エリザベートお嬢様ー!」


 寒くて、裸足の足が痛くて涙がぽろぽろと止まらない。

 泣いたまま戻っても母にもう一度歩かされるだけだと分かっていたから、私は茂みから出なかった。体の震えが止まらなくなって、茂みの中で土の上に身を横たえると、着ていたドレスが泥でべったりと汚れているのが分かる。

 母は私を叱るだろうか。

 もうそんなことはどうでもいい。

 私は母の望むレディにはなれないのだ。

 悲しみと寒さで流れる涙を拭いもせずにいると、茂みの外から声がした。


「こんなところにおられては風邪をひきますよ」


 見上げると、茂みの中を背の高い青年が覗き込んでいる。褐色の肌に黒髪に金色の目のその人物は、我が家に雇われている護衛の騎士だと私にはすぐに分かった。


「エクムントさま、わたしのことはみつからなかったことにしてください」


 涙を拭くと手が汚れていたのか泥がべったりと顔についてしまう。袖で泥を拭きとろうとしても、袖も泥で汚れている。

 エクムント様は長い手を伸ばして私の脇の下に入れて抱き上げた。


「失礼いたします。エリザベートお嬢様、こんなに濡れて」


 泥で服が汚れるのも気にせずに抱き上げてくれて、もう足が痛くて歩けない私を連れ戻してくれるエクムント様。その格好よさに胸がときめく。

 お屋敷に戻ると母は私を叱らなかった。


「寒かったでしょう。すぐに湯の支度をさせます。しっかりと温まっていらっしゃい」

「おかあさま、おこっていないの?」

「わたくしがやりすぎました。エリザベートには素晴らしい女公爵となって欲しいから、つい期待をし過ぎてしまいます。今日はゆっくり休んでください」

「おかあさま……」


 子爵家に生まれたが、その素晴らしい才覚を買われて、母は侯爵家に養子に入って、公爵家の跡継ぎの父と結婚した。礼儀作法だけでなく勉学も非常に秀でていたという母にとって、私を立派な公爵令嬢にして、いずれは女公爵として立派に育て上げるのが理想なのだろう。


 母の期待は幼い私には重荷ではあったけれど、母に愛情がないわけではなかった。母が私のためにしてくれているのだという思いはあった。


「ちゃんとできなくてごめんなさい」


 謝る私の濡れた髪を母が撫でる。


「風邪をひきますよ。お風呂に入っていらっしゃい」


 促されて私は温かなお風呂に入って、着替えて、夕食を食べてぐっすり眠った。


 夢の中で私は事務職をしているもうすぐ三十になる女性だった。

 私には大好きな愛読書があった。


 『クリスタ・ノメンゼンの真実の愛』


 その本の中で主人公のクリスタは悪役のエリザベートに苛められながらも、皇太子、ハインリヒ・レデラーと結ばれるのだ。

 ハインリヒには妾腹の兄がいて、兄を慕う彼は兄が皇太子として国を継げるように自分はわざと素行を悪くして廃嫡にしてもらおうとする。しかし、妾腹の兄がハインリヒに国王となることを望んでいて、ハインリヒの即位後は右腕としてハインリヒを支えるつもりでいることを、クリスタの手助けを得て知り、クリスタを婚約者として立派な皇太子になる決意をするのだ。


 王家の兄弟を仲直りさせるクリスタの物語が私は大好きだった。


 目が覚めて、私は鏡を見て息を飲んだ。


 エリザベート・ディッペル。

 この国の初代国王と同じ紫の光沢のある黒髪に銀色の光沢のある黒い目のきつい顔立ちの美女。

 まだ私は六歳なので、完全に挿絵の顔と同じではないが、限りなく似ていて、面影がある。


 どうやら私は『クリスタ・ノメンゼンの真実の愛』の世界に生まれ変わってしまったようなのだ。

 しかも、私の立ち位置は主人公のクリスタを苛める悪役である。


「どうしましょう……」

「エリザベートお嬢様、いかがなさいましたか? 今日の髪型はお気に召しませんでしたか?」


 私付きのメイドのマルレーンが私の髪をハーフアップにしてくれながら、ブラシを持ち上げる。ハーフアップにしてくれるのは嬉しいし、髪型も可愛くてつけてくれたリボンも気に入っているのだが、そんなことよりも私は思い出した前世に困惑していた。


「わたしがクリスタをいじめるの? うそでしょう……?」


 クリスタは素直だが奔放なところがあって、そこが厳格に育てられたエリザベート、つまり私と合わないのだ。貴族の子女が通う、サロン的な学園で私、エリザベートはクリスタと出会って、その行儀作法のなってなさを馬鹿にして、一つ一つあげつらうように注意していって恥をかかせるのだ。

 物語のラストでは、皇太子妃となったクリスタがエリザベートを辺境に追放するエピソードもあった気がする。


 これはまずいのではないだろうか。


 このままでは、私はクリスタに辺境に追放されてしまう。

 できる限りクリスタに関わらないように過ごしていれば、物語の筋を変えられるかもしれない。

 私はクリスタに関わらない人生を送ることを固く誓っていた。


 『クリスタ・ノメンゼンの真実の愛』ではクリスタが学園に通う十二歳からの物語が描かれていた。私はクリスタよりも一歳半年上のはずだから、クリスタはまだ四歳のはずだ。

 ノメイゼン家は子爵家で、クリスタの母親と私の母は姉妹同士に当たる。

 私の母は完璧な礼儀作法と知性を身に着けて、子爵家にはもったいないと言われて侯爵家に養子に行って、私の父であるディッペル公爵の跡継ぎと結婚した。

 私の父も母の美しさと知性にすっかりと惚れ込んで、結婚してから私が生まれた。私が生まれた後に、父は公爵位を譲られて、母は公爵夫人として立派に地位を確立している。


 クリスタが子爵家からどうやって皇太子のハインリヒ殿下の婚約者になるかは、よく覚えていないのだが、追放された私の代わりに公爵になっていた気がする。


 クリスタに出会ってはいけない。

 関わってはいけない。


 クリスタに関われば私は自分の地位を奪われて辺境に追放されてしまう。

 それは絶対に避けたかった。


 政略結婚だったが両親はそれなりに仲がよく、父も母も私のことを大事にしてくれている。それが公爵家の跡継ぎであるからという理由であっても、私は両親のことを尊敬していたし、慕っていた。


 着替えて朝ご飯を食べに食堂へ行くと、父も母も食卓に着いている。

 給仕してもらいながら私は朝食を食べる。


「エリザベート、パンは一口大にちぎって食べるのですよ」

「はい、おかあさま」

「口に物を入れたまま喋ってはいけませんよ」

「は……はい!」


 急いで飲み込んで返事をすると、父が食事をしながら私に微笑みかけてくれる。


「明後日、我が家でお茶会を開くことになった。ハインリヒ殿下もノルベルト殿下もおいでになる」

「りょうでんかが、おいでになるのですか!?」


 なんということでしょう。

 避けようと思っていたもう片方の相手、皇太子のハインリヒ殿下と妾腹の兄君のノルベルト殿下も来るとなると私が出席しないわけにはいかない。


「子どもだけでお茶会をするから、無礼講で気負わなくていいからね」

「あなた、エリザベートは立派なレディです。ちゃんとできますわ」

「エリザベートはまだ六歳ではないか。ハインリヒ殿下も同じ六歳、ノルベルト殿下は七歳だ。まだ格式ばらなくていいだろう」


 大らかに笑っている父だが、私は貴族社会の仕組みを叩き込まれていた。

 格上の貴族、王族に逆らったものがどのように言われるのか。


「お茶会には他の子どもたちも来ます。手本となれるように、エリザベート」

「はい、おかあさま」


 この国一のフェアレディと言われた母の名に恥じないようにふるまわなければいけない。

 私にとってお茶会は戦場のようなものだった。

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