ダブルスタンダード

泥斜(どろはす) スグ

第1話




「長屋先生、食事中すいません。この文書だけお願いできますか」

 振り返ったのは目の下に弛みの入った、ガタガタの四角い黒縁メガネにガサガサ唇とボサボサ頭が特徴的な、冴えない中年である。俺である。

「ああ……はいはい。そこ、置いてください」

 箸で机を指し示すと彼女の顔に不快感がよぎる。しまった。次からはやめよう。

 頭をガリガリ掻いて書類を見る。しかし横に佇む彼女からは立ち去る気配が無い。不思議に思って見上げると、彼女は口を開いた。

「それと、先生に話がある生徒が居ると」

 弁当を置いて振り返れば、いつも社会科準備室まで来る生徒だった。名前は確か関口だ。

 いつも授業中に半目で寝かかっているくせにコイツ……。

「なんだガキか……」

「なんだってなんですか。あとガキってなんですか。しかるべきところに言いますよ」

「用が無いなら帰った帰った。俺は忙しいの」

「えー! ありますあります用事」

「じゃあ何」

「今度軽音部がバンドでステージに出るのが楽しみでさあ、皆今練習してるんだけど」

「帰れ」

 マジで帰れよ。雑談じゃねえかよ。

「それで先生の許可証が要るのに気付いて」

「……ほい。サインした。はい帰れ」

 が、関口はそのまま俺に「それ自分で作った弁当ですか?」と質問を続けてきた。追い返すのは失敗だ。よせばいいのに、俺はそのまま関口と雑談を続けた。

「なんでバンドやるわけ」

「そりゃあ、仲間と立ち上げたバンドを続行したいからですよ」

 それは答えなのか。

「私将来バンドでギターやっていきたくて」関口はぐっと拳に力を込める。「新しい世界に飛び込んでいきたい」

 眩しいもんだ。

 ウッと目を細めるも、関口は気にしない。

 多分その時に、口がスケールのデカい話をしようとした。できればなにか言おうとしたに違いない。だが、口を開けば嘘になることを危惧した。俺に大層なことを言うことは出来ない。

「……じゃ、先に直近のテスト勉強に励むんだな。範囲はまだ教えんぞ」

 自分ときたら、飛び込むのが恐ろしい。

 同世代の芸能人か誰かが、この間テレビに出ていた。

 たいそう成功したようで、それが鼻につく。だからそいつが出るとテレビを消していた。

 そいつが結婚したらしい。フーン、と。それくらいのはずだった。

 なのに、話を聞いて見れば案外に深い話をしていた。

 心の中では見下していたのかもしれない。けれども、そいつは俺よりもずっと、大人で、立派だった。

 率直に言えば、羨ましい。それでいて妬ましい。深い闇の中に躊躇いなく飛び込んでいけるその光が。 新しい話が飲み込めない。時代に着いていけない。それが致命傷だった。老いた。

 俺はもうスケールのデカい話はしたくない。道徳とか。俺だけの正義も。なんでか。

 俺がなにかに気付いたところで、それはつまらんもんだと知った。そんなことは同じことは既に再三言われている。けれども俺はそこから特別なことは言えない。新しく踏み出せなくなった。そんなことはよくあると知ってはいる。けれども俺はバカだ。年を追うに応じて、段々「ああ、俺ってつまらねえな」と、飛び込むよりも先んじて失望が勝る。

 例えば、あえて今更使い古された文句で説教してみるとか。そういうのが。

 使い古された文句が好きになって、新しいことは怖くなった。そうだ、怖い。

 同世代すら眩しい。いわんや高校生はどうか。

「……」

 胸元にタバコの箱を求めて手を彷徨わせるが、指先に触れたのは飴の袋だった。そもそも食事中だった。このヤニカス。

「先生は高校の先生が夢だったんでしょ? 叶ってよかったじゃん」

「……いや。ガキ嫌いだもん」

「またガキって言った」

 次に使うことをふと思いだし、後ろから資料集を引っ張り出す。該当箇所を探そうと表紙を掴んだ瞬間に落としかけた。バラッと音がして、勢い余って奥付が開かれる。

 そこには、名前が羅列してある。

「10億当たらねえかなってのが今の夢だよ」

「そんな……ジャ〇ボ宝くじにすべてを掛けすぎ……」

 


 生徒が立ち去った後、隣にいた同僚がハッと皮肉っぽく笑った。

「ネガティブすぎても面倒だけど。夢ばっか語られてもね」

 別になにがあった訳ではないらしいが、同僚のこの女は常にこんな感じだった。俺は別に好きでも嫌いでもない。ただ、生徒からは不評だ。

「……さ、切り替えよ」

 ひとつ伸びをして、再び弁当を持ち上げると、それを待っていたかのように緩やかな音楽が流れ出した。

 校内ラジオだ。うちの高校の報道部が週替わりで担当している。去年までは確か、日常をテーマにした手紙の募集と雑談だけだったはずだ。それが確か、コーナーを増やしたんだったか。

「高1、D組の高杉です」

「同じく高1、C組の宮田です」

 年齢に反して大人びた低い声と、高らかでキッパリした声が響く。

 しばらくは雑談しているのか喧嘩しているのか分からないようなトークが続く。それが案外に良い掛け合いで、思わず耳を澄ませた。

 思っているよりは積極的に部活に参加している生徒が多い。俺が高校生の頃なんて帰宅部だった記憶しかないし、誰もが言い出しっぺにならないように口を閉じていた。

「お悩み相談室のお時間です。今日はたくさん届いていましたね、嬉しいです。それではボクが選んだお便りを読みます」

 弁当を食いながらしばらくは黙って米を噛みしめつつ聞いていたが、やがて咀嚼を止めた。

……重い。重すぎる!

昼食の間に聞くにしては、弁当にタールがかかるように感じるほどに重い。そして、ぶつ切りで読みづらいのを、おそらくその場で改変しながら話している。おそらく辛さを訴える短文が長々と続いているのだろう。上出来ではあるが、それがなんとも軽快さを失い、陰惨さを演出している。

教室では聞こえづらいだろうが、あいにく静かな準備室にははっきりとよく聞こえる。ハキハキとした良い声なのだから、ラジオ越しでも尚更よく響く。

「……こりゃあ、なんか言われるぞ」

 あそこの顧問誰だっけ。

 相方の女子はというと、呆れている。

「なんでそれ選んだんですか? 他にも色々届いてたのに」

「おっと、その発言は失礼に当たらないか。苦しそうだったからだよ。もちろん、他の人だって苦しみ回っているし緊急を訴えているのは承知の上で」

相方はばっさりと切っていた。

「まず医者に診てもらった方が良いわ、そこまで来ると」

しかし、当の手紙を選んだらしい本人はこれを優しい声で、寄り添うように声を掛けた。

「わかるよ、わかる。キミはこれがつらい、つらいね。つらい。すさまじくつらい。まさに地獄の痛みだ」

「わかるってアンタね、そんな同意しまくる女子みたいな」

「いいや、わかる。だって、キミが苦しめばボクも苦しいからね」

 有無を言わせない態度で、しかし重たい声で彼はそう呟く。

「俺は君の分まで苦しいよ。ここに痛みを感じる人が居るよ」

 その声は、心の奥まで苦しみを味わっている人の沈痛な溜息だった。恐らくは、嘘ではない。

 最初俺は、ほう、と感心の声を漏らした。

 それはなんというか、「世の中捨てたもんじゃないね」みたいな意味の「ほう」だった。

 しかし、高校生が聞く悩みとしては、異様なほどに重い。そして、彼も恐らく本質を掴み切れてはいない。彼も本当は苦手なんだろうな。

ちょっとだらだらと続いてから。

「次のコーナーに行きます」

「え、終わりか」

 もうちょっとなんか言うかと思った。

 つまりは、……まあ、大人からすれば、一時的な処方だった。

話を聞く限りは問題の根っこは変え難い環境から来ていて、恐らくそれはまだ解決していない。そして、悩んでいる本人すら、性格が環境によって大いに影響されていることに気付けていない。 

 確かに寄り添う姿勢が彼女もしくは彼に要る。その孤独に。けれど、「ここで終わり」では、辛いまま、じゃないか。瘡蓋を剥がしたまま、自分でどうすることも出来なさそうだから。なのに、多分彼との接点は一回きりだ。それで多分、あの手紙を書く時、自覚はあったんじゃないか。辛さの。

 ……いやまあ、俺は心の分野はからっきしだが。

 そりゃ、それ以上の責任は取れないし。

 そもそも、その後は勝手にするだろう。

 俺だって、咄嗟になんて言えばいいのか分からない。そもそも苦手だ。きっと、使い古された文句で誤魔化そうという気持ちが沸き上がってしまう。

 一応後で誰からの手紙だったか聞きに行くか、とまた頭を搔いていると、隣で間の抜けた声で同僚が呟いた。

「そんな生優しいこと言ってないで、本人が悪いのよ。ばっさり切っちゃいなさい」

 同い年だっただろうか、そんなことはどうでもいいけれど。初めて、「こいつうるせえな」と感じていた。




「長屋先生」

 また関口が来た。目の前で盛大に舌打ちをする。「目の前で舌打ちしないでよ」

 

「なんでバンドが好きなわけ。バンドというか、音楽」

「現実ってクソじゃないですか」

 予想していなかった回答に、ペンを持つ手が止まる。

「線がこんがらがった爆弾みたいに、複雑さを極めていて、どこかをつついたら即爆発! ……みたいなことばっかりで。ほらジェンガって一回はやったことあるでしょ? あれの終盤みたいで、面倒くさいんですよ」

 関口はやれやれと首を振る。

「だけど、音楽は一人の叫びでも受け止める。どこかに同じ人が居る。誰も切り捨てない。どこかで在り方を肯定する」

 ぐっと、拳を握り込んだ。

「前に、医者を目指した方が良いんじゃないかと思ったんです。あ、成績はともかく。私の目指すことなら」

 関口は思いだしたように、近くに置いてあった消毒液を手に取った。窓の外を歩く人の顔にはマスクがある。

「現実で難しい状況は山ほどあります。全員が救われて欲しいのは理想でしょうね。でも私はまだ、理想を語りたい」

 そう言った時の関口は、前に増して眩しく見えた。けれど、今は関口の顔が見える。

「デカい夢だな。最後は武道館か」

「そうですね、自分がそこに立ちたいと思うのは夢です」

「叶う見込みは、ありそうか」

「自分がそこに立ちたいと思うのは夢ですが、私の音楽がそうあるべきと思うのは理想です。夢と理想を歌い続けながら、私は理想を守っていきたい。……それは、夢が叶わなくても同じように」

 それで、医者か。

「誰も捨て置かない音楽か」

「すいません、さっき切り捨てないって言ったのは過言でした」関口は両手を広げた。「誰も傷つけないっていうのは難しいですね。心持ちです。この両手に掬えるだけ、抱きしめたいっていう」

 そこで俺は、とうに自分の夢のイメージが随分とふわっとしてしまっていることに気付いた。けれど。

「……そっか。俺、ロマンチストだからさ」

 ふっと笑って、頬杖を突きながら向き直った。

「そういうの好きだわ」



 別日。

 授業が始まる前だったか、ワラワラ集まっていた生徒と話していると、放送部の話題に流れていった。

「高杉が居る所ですよね」

 すぐに出てくるあたり、有名なんだろうか。

「あの大阪・京都・奈良のうち一人みたいな顔の」

「なんだその分からん例えは」

 偏見のごった煮みたいな例えだな。でもその中だと絶対京都だ。

「仲良いのか」

「別に」

 横に居たもう一人が「あー」と声を上げる。

「あいつ、昔なんだったかな、国語の授業中にガチ泣きし始めたんすよ。急に。いつもカッコつけてるから余計に皆ビビッて。どうした⁉ って聞いたんだけど、そしたらケロッとして『人の痛みを心で感じられた』って言うから、何バカなこと言ってんだってドン引きして」

「人の痛みをねえ」

「俺は好きじゃないです。基本周り巻き込むので」

 俺にそんな話して大丈夫か。

「先生らしくないし……」

「おい」




 D組の扉を叩くと、雑然とした笑い声が薄くなっていった。

中学を卒業したばかりの、聡い奴らの顔を見る。おそらくは、まだ中学校の校則すら抜け切れていないんじゃないか。

「いいか、人が歴史を作り、えー、歴史は人を作る、その最たる例として〜」

口を動かしながら、ぼんやりと山田を見る。こいつはいつもいつも、兵士のような顔をして授業を受けている。溌剌として、休んでいる様子を見せない。昔からそうだったんだろう。それがなんだか心配だ。あらゆる方向に頑張ってしまっている。

なんだかたまに、常に武器を持って走っているように、休めない人がいる。俺が言い過ぎなのか。

楽しいだけじゃないだろうけど、俺はただ普通に、「フツーにがんばってくれ」と声を掛けたい。精進してくれ。より綺麗になってくれ。より豊かになってくれ。良い人に出会うような人になってくれ。

一方で、それを言う俺が過度に我慢に我慢を重ねて頑張ってたら、俺はいつか、相手を見ずに自分が舞台の主役になってしまって、同じように無理をさせようとしてはしまわないか。そしていつの日か、変わらない相手を見て「俺をとにかく信じろ」と怒ってしまわないか。先細りしていくような未来より、どうせ見えないんだから本当は今を楽しんでほしい。

俺は未だにそんなことを気にしている。

こんなこと考えているから「陰キャ先生」とか言われるんだろうな。知ってるんだぞお前ら。

目線を逸らす。あれが高杉だ。

いつも眼が開いているんだか閉じているんだかよく分からない顔でいる。アイツはなんだかんだ優秀で通っているはずだ。

高杉はぼんやりと俺じゃない方向を見ている。黒板の、ある一点だけを睨んでいる。

上の空でいるんじゃねえ、とその時はイラっとした。けれど、

「それで、えー、彼らは迫害の歴史を辿り〜…………まあ確かにグロい話ではあるが……」

 十分すぎるほどに痛々しい表情が漏れていた。

まるでその場に居るかのように苦渋を味わっている顔。巨大ななにかに圧し潰されているように悲痛で、まるで悪霊がとりついているのではないかと思った。




 放送部に寄ったのはたまたまだった。

 帰ろうとした時、「やあ長屋先生じゃないですか」と声を掛けたのは、なんと高杉の方だった。やはり開いてるんだか閉じているんだか分からない眼でこちらを見ている。

 立て板に水と言った様子でペラペラと、どうでもいいような話を振って来る。

 この様子が向かう所敵なしといった感じに思われるのだろうな。

「そういえば、最近昼に放送を聞いているが」

「最近ということは恐らく相談コーナーですか? どうでしたか?」

 即座にレスポンスが来てビビる。

「……よりそう力が凄いなと」

 それしか言えなかった。けれども彼は、「そうでしょう」と誇らしげに言った。

「俺には分からん。普段、どんな考え方してるんだ」

 はた、とくるくる回っていた高杉の手が止まる。

 なにか勘付いたようだった。

「……自分の中に人の思考を再現してみること、誰だってあるでしょう。それと同じだけですよ。ちょっと違うのは、その瞬間瞬間の感情を再現してみるんです。ボクは人間を愛していますから」

 それだけなのか? と思わず目の中を覗き込む。するとすっと目を逸らされる。

「役者さんが役作りのために同じ体験をしてみたりするでしょう。あれと同じです。あれを、普段からどんな時もやるんです。自分の中で、再現を。子供、怪我人、病人、殺人鬼、虐待、****、*****」

「キミ役者じゃないだろ」

「役者じゃなくたっていいじゃないですか」

「……じゃあ本当に痛そうな声だったのも、演技か?」

「それは違います!」

 すると彼は目を見開いた。

 まるで、怨霊にでも憑りつかれているかのような様子だった。

 心臓から血を流しているかのように、胸を抑える。

「本当に痛いんです。ボクはできることならその子の病気すらまるごと欲しいんです。本音を言うなら、人と同じ箇所にケガを移す能力が欲しい」

 そう言い放った彼は、後光が差すかのように、まっすぐな目で、俺を見た。

「きっと、たった今車に跳ねられた時の人は激しい痛みを訴える。天地も分からないまま地獄を痛感する。普段は聖人君子のはずの人間が、助かるなら目の前を通る誰かと入れ替わっても良いとまで願います。その時先生ならどんな感情に襲われますか」

「先に救急車を呼んでから考える」

「質問の仕方が悪かったです。抽象的でした」

 ダメか。

「ボクも跳ねられればその時の心境が分かります。だから同じになりたいんです」

 ……お前、何を言っているのか分かっているのか。

 しかし高杉は笑顔で天を仰ぐ。

「ボクにはその視界が想像できます。その聴覚が想像できます。その寒さが想像できます。その息苦しさが体感できます。

どれだけ傷ついたことでしょうか、全てがめちゃくちゃになるほど傷ついた人が居る。『私の痛みはこんなもんじゃない!』と叫ぶ人のことを見逃すことが出来ずにいる。

だから、ボクも同じだけ傷つかなきゃ。誰かと一体となるまで、同じになって、ボクの心に痛烈な痛みが走った時、初めてボクは喜ぶんだ。やっとその苦しみを芯から理解できた! って思うんだ。知ってますか? 人間は既に倒れた人しか苦しんでいることを認識できない」

 段々と彼に圧倒され、まるで自分が酷い人間のように思った。そうして、酷い人間になることだけを避けようとした。

 彼の掌を見ると、初めて気づいた。火傷、切り傷など多種多様なケガがある。それ、自分でやったのか? 同じケガをしてみたのか?

 それは、同化じゃないか?

 これは、認識しているレベルじゃすまない。

しどろもどろになりながら、さっきの言葉を反芻しようとする。けれど、分かりやすい語彙を選ぶ。

「……それは、さっきの救急車のくだりを引きずるが。その行動は、また違うんじゃないか。お前が担当しているのは、会話なんだろう。だったら放送の時も思ったが、その先に解決すべきことが、話し合うべきことが、というか」

「それじゃ救えないんだ」

 泣きそうな声で彼は叫んだ。

 俺は失敗したことを痛感した。俺はこの瞬間、子供に寄り添わない大人になった。

 そして俺の言葉も、つまらないものとなった。

 俺はてっきり、感受性が高いだけなのだと思っていた。ただ、なにかが引っかかる。

「ボクにはなにもないから、直接的になにができる」

「それは、……それは。結局なんて声を掛けてやるんだ」

「でも、でも、そうしないと」

 頑丈な殻が見える。俺が一歩踏み出した所で破れないだろう殻が。

「お前、それは」

「なんですか」

「……なにか押し付けてないか」

「それでも俺が痛いだけで済むならいい」

 最初からなにも言うべきじゃなかったんだ、と心に諦念が浮かぶ。それを見て見ぬふりした。回答を考える時間が欲しい。けれど、待ってはくれないだろう。いつもこれだ。

「ひとつ聞いていいか」

「なんですか」

「どうして、俺には話した」

 おそらく、友達には言った事がないはずだ。そこまでの本音を。

「長屋先生なら、その気持ちが分かっても放っておくでしょう」




「高杉ですか?」

 確実に仲良かったよな、と思うやつにさりげなく振る。

「最初は、アイツってこう思ってるに違いない、と外から色々言われてはいたんですけど、今はどうなんでしょうね? この間からアイツ、殺人鬼の手記とかばっか読んでて、ヤバい奴なんじゃないかとか。ほら、あの妄想で人を殺した」

「なるほど」

 別に、他の奴ならそれで止めはしないが。

 あの教室での顔が浮かぶ。……そんな顔で読んでいたら大変じゃあないか。

「……っていうか、先生がそんな聞くなんて珍しいですね? 調査でもしてるんですか?」


「俺は……何を……」

 なんか……気になっちゃって……。

 気になったら調べたくなる癖、人に対しては無いと思っていた。

「長屋先生」

 横から声がした。同僚だ。

「あんまり一人に入れ込みすぎないようにね。全員にとか、そんな余裕無いですから」

「……知ってますよ」

 もとより、深入りはしない主義だ。俺は熱血ではない。

「ただでさえ贔屓してるんじゃないかとか言われ放題ですよ」

「はあ⁉ そんなわけ……ってかなんのこと……入り浸ってるアイツか!」




 それがテスト期間を通り過ぎて、どれくらい経ったのか。

 高杉は、良くない傾向が出ているように見えた。

 眠れない様子を見せていた。さては夜更かしでもしたんだろう、部活動禁止を狙ってゲームでもしたのか、といつもならそう結論を出しただろう。けれど高杉は、やっぱり兵士のような顔をし始めた。けれど、山田とはまた種類が違う。なにかに怯えるような顔をし始めた。

 けれど恐らく、彼は恐怖の感情を捨てられない。自分だけではないから。

 なにを読んだのか、日常的になにかに憑かれているかのように、ペンの先を見ていた。  

 恐らくは“再現”を図っているのか、屋上の方を睨みながら、感情が荒れるように集中していた。

 それで、テストの点数は大幅に下がっていた。元が優秀な範囲だとしても。

 これは憶測だが、上の空でいるだけじゃない。理解力そのものが下がっている。そして先に進めない。

 ああ、まずいな。と勘付いてはいた。他の教師がそれを知って居るかは知らない。けれども、知って居た所でどうすることも出来ないだろう。そしてしないだろう。




 休日、午前に雑事の為だけに出勤してすぐに外へと飛び出た。

「あ゛ああああ~~~~~……はあ……」

 伸びをしていたら酷い声が出た。

 タバコの代わりに棒付きキャンディーを口に咥える。甘ったるい味が口の中に広がり、これは果たしていつまでやればいいんだろうかと疑問を持つ。

 何度も禁煙を失敗しているからこその飴である。ならいっそ、禁煙自体を中止すれば良いのではという考えが頭をよぎるが、吸い始めるとなにかにつけて禁煙を開始している。だから元は俺が始めたのだけれど……。考えるのをやめた。

 俺がアル中にでもなったら絶対止められんだろうなぁ。

 公園のベンチに浅く腰掛けていると、ザッと傍に気配が近づいた。

「もしもし」

 凛とした、鈴のような声が聞こえる。

 振り返ると、そこにはお嬢様然とした美少女が佇んでいた。

 なにか気迫めいたものを感じて、口から飴を外す。

「貴方、七草高校の先生ですね」

 美人ではあるが、16歳かそこらだろう。

 別の高校の生徒か。私服なのは、休日だからだろう。

「高杉、という人はご存知でいらっしゃいますでしょうか。知って居るのなら教えてください」

「……アイツと、なんの関係が」

「例えるなら私はストーカーのようなものです」

「では通報します」

「待ってください」

 名前も知らない美少女が、頭を下げる。

「教えてください」

 往来の中、何事かと振り返る主婦がいる。

 頭の後ろを掻いてから、遠くを指差した。

「立ち話もなんです」




 パーテーションがテーブルを二つに分ける。それを挟んで、珈琲と紅茶が置かれた。

 その両端に、彼女と俺が座る。

「名前は」

「人頭八重子(ひとがしらはえこ)です」

 失う物は無いとばかりに臆することなく本名を明かす。

 その苗字に、ピンとくるものがあった。いやまさか、と御伽噺を否定するように頭を振ったが、やはり記憶に新しい。

「……代々歴史ある名家の一つじゃないですか。人頭の名前を出せばなんでも通るとまで噂される。あんまり内部事情は知らないけど」

「お詳しいんですね」

 八重子は口端を上げた。その笑い方が、高杉に似ていた。

「今は勘当されていますが」

「……その歳でなにが?」

 好奇心を煽る物言いに、つい前のめりになって聞き込む。

「そもそも人頭家が最近になって没落の形を取ったのはご存知でしょうか」

「まあ……家族経営が色々立ち行かなくなって、今はやめていると」

 あんなに強固に、いわゆる財閥の形を崩さなかったのに。

「では内部で個人の尊厳が無かったことは?」

 八重子は目を見開いていく。ひまわりがゆっくりと花開くように、白い眼球の中で美しいはずの虹彩が浮かんで見える。

「私は小さい頃、あの一門の中で育ちました。ただあの家は、昔は裏で家族の不祥事をもみ消すこともできました。だから子供一匹がどうなろうとなんでもありでした。時代は変わったようですが」

 言葉を失っているのを見て、その隙に彼女は畳みかけた。

「そんな中で彼と出会いました。彼は懇切丁寧に、私の話を聞いてくれました。でも、私はその時、それまで閉じていた蓋が開いてしまったんです」

 ざあっと濁流に呑まれる感覚が俺を襲って、その中でぐっと腕で顔を庇う。

 その一方で、彼女は濁流に呑まれかけていた。

「逃げたかった。あの一門まるごと壊してしまえばいいと思った。一度実際に逃げました。正義の顔をした警察が、笑って家に帰しました」

 彼女が俯いた先には、濁流ではなく紅茶があった。そこで自分は我に返った。

「彼は収集のつかない私の感情を聞きました。その一件のことを聞いたら、ショックで蹲りました。彼が『きっといつか助けられる』と言う度に、私は睨みました。それで、彼は口を噤みました。私は一度、彼を明確に跳ね除けました」

「どうして」

「そんなこと聞きたくないわ、私の痛みが分からない? って」

 そこで一度、彼女は首に手を伸ばした。

「彼が私の代わりに泣いたのを見て、ようやく通じたと思ってうれしくなりました。

一度それで私の中の泥水が空になっても、またすぐにいっぱいになります。その度に、吐き出したくなります。その度に、何度も、彼は代わりに泣きました。その度に、私は安堵しました。不思議なことに、一度吐き出してしまうと許容量は小さくなっていくんです」

険しい顔になったのに気付いたらしい。彼女は顔を上げて曖昧な表情で笑った

「力の無い、弱い私の事を救って欲しかったけど、それには私の弱さを知って貰わなければならない。そのことに気付いたのは、かなり後でした。

私は事件を起こして、外に私の弱さをアピールしました」

そこで、ぐっと八重子は目を閉じた。拳を握り、唇を血が出るほどに噛みしめ、苦渋の表情を漏らした。ようやくふっと全身から力を抜いた。

今度は、カーネーションのように穏やかな笑顔が、花開いた。

「ダメでした。でも、しばらくして家を見に行くとどうでしょう。更地でした。全部暴かれたんです。解決したんです。あの一門は全て、過去になりました」

 そのまま、私は彼の前から姿を消しました。彼になんて言って会えばいいんでしょう。私は彼の近くに居ない方がいい」

「あの、二点聞いてもよろしいでしょうか」

 さっきから取引先のような口調を止められない。しかし、これが丁度いい距離感に思った。

 触れないほどに熱かった珈琲は、とうに冷めていた。

 パーテーションの向こう、聞き取りづらい声で彼女は「はい」と言う。

「その事件は、……あなたは加害者ですか、被害者ですか」

「加害者です」

 これではっきりした。アイツがどこを向いているのかが。

「それは、いくつの時の出来事ですか」

「まだ一桁の頃です」

「……9歳でもそりゃあ、無理でしょうね」

 そのころからずっとか。

 これは俺には背負えない。荷が重すぎる。下手に触れれば爆発する爆弾のようだ。

「正直、まだ絵空事の世界で生きてるんです。でも、友達と歩く彼を遠くから見たら、安堵して。ああ、生きてるんだなって。彼が、私が?」

 しばらく押し黙った末に、俺はその沈黙に耐えきれなくなった。

 それが、「教えて欲しい」という彼女の我儘による沈黙だと知って居たからだ。半分は八つ当たりで、半分はなにも知らない怒りだった。

「でも! アイツは! おそらく今もまだあなたを救おうとしているんですよ!」

「……どういうこと」

 話を聞いた彼女は、顔を真っ青にした。

「……なら、……尚更、会う資格が無い。……私と居たら、もっと苦しむ……」

 すみません。と頭を下げてから、彼女は、意を決したように言った。

「もしも、その時が来たら、……一度だけ会って……なにを言えば良い? でも、私のことを忘れるように、それだけは言います」

 それじゃあ多分、不十分だ。

 けれど、彼女は「失礼します」と、金を置いて泣きながら出て行った。




「……また、重いものを」

 外に出て、天を仰ぐ。

「同じ箇所にケガを移した所でお前、自分じゃ治せないじゃないか……」

 ガキだなあ、と最初は、心の隅で思っていた。

「……へったくそがよ……」

 アイツは、当人はどんどん深い闇へと飛び込んでいく。方向を間違えているが、着実に。

『誰も傷つけないっていうのは難しいですね。心持ちです。この両手に掬えるだけ、抱きしめたいっていう』

 不意に、関口の言葉が頭をよぎった。

 いや。もしや。アイツ、高杉は同じ方に行っているとすら思っちゃいないか?

『それじゃ救えない』という声が、煙のように浮いては振り払う。

 本当に両手で救おうとしていたのが、いつの間にか火に飛び込む虫になっていたんじゃないか。

 憶測はよそう。いや。でも。

 一旦頭を空にしたい。

 一旦ぼんやりとしたい。

 目を逸らそうとネットを開いたのに、漫画の公告が重い内容でそのまま閉じる。

アイツはどんどん深い闇へと飛び込んでいく。けれどもある意味、眩しい。もしそうならそれがなんだか俺も羨ましさすらある。俺はいちいち傷付いて居られない。そんなことをしたら、明日フツーの顔で居られない。だから、俺が瞬く間にそちら側に行くわけにはいかない。

今、まさに俺は高杉のように目線を同化させるように迫っていく。違う違う。冷静になれ。

 俺はあの時どうしたっけ。

「……本当は苦手なんだろうなあ」

 でも俺も苦手なんだって。

 生徒にオッサンだの好き勝手言われるようになった歳の割に幼く見える自分が嫌で、同世代は見なくなった。段々と停滞が訪れるようになった。それで、一番に嫌いな人種は俺になった。

 高校生なんて遠い昔のことなんて忘れた。ましてや、最初にそんな心境に陥ったのはいつだ? 一方で、「なんだその程度の事で」と切り捨ててしまいたい。切り離してしまいたい。

 その時は、どうやった?

 思い出せ。思いだすな馬鹿。

 クソ、クソクソ。

 冷静な頭が、「考えろ」と問いかけてくる。

 ただ一方で。

「……だって、俺も、ガキなんだよ……」

 偉そうに言えるほど、俺も大人じゃない。乗り越えたのに最後の文章しか覚えてねえよ。だから、最後の文章だけを繰り返して、三章くらいのことを聞かれると弱い。だから寝ても覚めても馬鹿でも分かるように短く一文にかいつまむ練習をしていると、なんだか細かいことを自分ごと忘れていく。

孤独を忘れるごとに、複雑さを欠いていく。そんで、「ご意見どうですか」と言われる度に適当を抜かしてしまってその後、俺の言葉を自信持って背負わなきゃならん。

 俺には俺の弱い部分がある。雑な言葉を投げつける割に、俺がお前を傷つけないか、といつでも思っている。未だに俺は人を指導するのが怖い。そうだ、怖いんだ。人が怖い。人の中にいる自分が怖い。なのに元同級生から重たい声で電話が来たら思わず向かってしまって、結局宗教勧誘だったり。テレビ越しなら笑い飛ばせる甘さが、目の前に居られると無情になりきれなくなる。

 それを、闇の中へと飛び込んでいくことを忘れてしまった。闇の中へ今迷い込んでしまったら、明日生きていけるのかが分からなくて、段々迷い方自体忘れてしまった。

 彼に用意していた言葉は、これで無駄になった。

 どうして俺は、いつでも掛ける言葉を用意しているんだろう。毛布を持って出歩く人みたいに。

 あまりに多種多様で、てんでバラバラな愚か者が右往左往していくから、「話を聞け!」と毎回叫びたくなる。好きにしろ、俺も好きにするから、と投げうった瞬間が幾度もある。

人間らしく生きることが働くことに繋がらない。もう老人みたいなのに大人になりたくない。同僚すら本来の目的を忘れていく。本来の目的ってなんのことだ?

毎回子供より+1くらいを求められる。けれど、母数がやたらめったらデカいのに、たった1の自分に、専門分野じゃないところで+1を求められても困る。だから子供、つまり他人から学ぶ部分が多いけど、しょうもねえ俺は、あいつ偉いなあと見上げているとどっかで高杉みたいになるのが怖い。

……どうして? アイツみたいにハンドルの切り方が拙い奴と知らん間に同席していたら、時々採点を見間違えるみたいに道路に突っ込むから、俺は一旦溜息をついて……なにをする? ハンドルを握るのか? 違う。俺は見誤らないように離れて見ている。

一方でどうしようもねえと言いたくなるやつが居て、そっちに合わせるわけにはいかないけど、そういう奴に限ってそれを言われるほどの余裕が無い。乾いた地面みたいに、水を注げば注ぐだけ吸収していく。だけども触られるのを嫌がる。俺もそこに居たら嫌だ。俺はいつでも毛布を用意しながら、暑かったら悪いからと結局掛けてやらない。

……どうして無情になる必要がある? なんでって……。

……なんで見上げるって言ったの? そりゃ……見上げる? 違う。ああもう!

 畜生、馬鹿でいさせて欲しい。

 どうしてこんなに気が立っているんだ。そうだ、タバコをずっと吸ってない。なのにさっきの喫茶店で存分に吸っている奴が近くに居た。こういう一旦頭を空にしたい時にこそ吸っとくべきじゃないか。なんで禁煙なんかしているんだ。もう吸ってしまえ。なんて言っていたら本当に吸いたくなってきた。

「……いやっ……でもな……新記録だし……」

 往来に飛び出していきそうな心持ちでコンビニの前までから家に帰るY字路を行ったり来たりしていると、「長屋先生?」という声が後ろから掛かった。

 後ろを振り返ると、高杉本人である。

「あっ」

「えっなにしてるんですか?」

「……いや考え事を」

 澄ました顔で振り返る。

「なんか、もうヤダ~~~~~~~~~~! みたいな顔してませんでしたか。考え事なら話聞きましょうか」

「さすがよく人の事を見ているな。でも違うぞ。あと聞かなくていい」

 しれっとした顔で対応する。

「……街中で珍しく先生を見かけたと思ったら悪事でも働きそうな顔だったので」

 タバコを買おうか悩んでただけなのに。高杉、そこは正直に言うのか。

結局、「バレてしまっては仕方がないな、口止め料だ」とかなんとか適当なことを言いながらさっきとは違う喫茶店に連行した。




 カウンター席で隣り合った席に座る。カウンターテーブルにはパーテーションはあるが、何故か二枚が一センチ幅で置いてある。けれど、一席開けることなく横に高杉が座る。これに意味があるんだろうか。

 悩みとかある? 学校楽しい?

 俺は休日のおとうさんか?

 高杉の方にあるパーテーションを「二枚要りませんね」と言ってズラそうとするのを、俺はそのままにさせる。いや、二枚要る。

 とりあえず……ジャブを……こう……うまいこと切り出して……切り出し方……どうしよう……なんかいい感じに……ていうか俺がわざわざ言う必要も本当は無いよな……人って勝手に変わるもんだし……クソッ……なんか……小学生の頃からぼっちだった弊害だ……いわゆる……いわゆるってつけちゃう所だろ俺……。

 一方やはり立て板に水といった様子で高杉は話をする。俺、微妙な相槌しか打ってないのに。クソッ雑談が上手い!

 ……俺は、どうしてたった一つが伝えられないんだろう。

 けれども、そのたった一つを言うために、俺は背伸びをした。

「……授業中って、聞いているか? 別のことを考えてないか?」

「聞いていますよ。テストの点が下がっているかもしれないけど、ちゃんと。自主的に勉強もしてます」

 残念そうに高杉が首を竦める。

「そうか、疑ってすまない。なら、あそこは? あの迫害の所さ。お前なら……例えば、この時代に生きていた人はどういう苦しみを負ったのか、一人の目線で考えたことあるんじゃないか。正直に答えてくれ。あー、正直っていうのは……感性そのままとか、その時のこと全部って意味で……伝わるか?」

これにはやや動揺したらしかった。何故。

「顔に結構出てたぞ」

「……」

 高杉はまるで町を歩く一人がそのまま語るかのように、流暢に語り出した。まるで、語り部のように。

「だから、上が変わるのを待っていた。でも、ボクには変えられなくて」

「うん」

 細かな違和感は見ないふりをした。テストで出すような所よりも、授業外でなにか資料を読み込んだのか、日記に書くような細かい話を知っている。

 俺はそういう話の方が好きではあるけども。……いやホント詳しいな。これ俺の授業要るか? 次のテストちょっと変えた方がいいか?

「お、おお……『酷いと思った』って一言だけ返される場合とかもそれなりに多いからさ、お前よく見てるな」

 小学校から高校、俺は高校しか知らないけど、やっぱりいくら俺がそのまんまで居なさいと言ったところで、俺がいくら「俺はただの俺だ」と思っていても、やっぱり俺は“学校側”の人間で、それ以上は隠されたりする。つまり、見せられないと判断される。

「お前に聞いてみて良かったわ。ちょっと聞いて見たかったんだけど」

 スマホで画像を見せる。

「さっき出てきたタオユアンシアン、ここに実際に行ったことがあってさ」

 興味が出たのか、「はい」と相槌を打つ。

「あそこに実際に行ってみたんだけど、空気自体が重かったな。怨念が篭っているように。このまま長く居たら怨霊が憑いて、俺が狂うんじゃないかと思うほど。二度と繰り返すべき悲劇じゃない。最近も色々、あるけど」

 月並みなことを言う。

 けれども高杉は、

「……そうですか。それは、行ってみたいですね」

 遠い土地を目を眇めて想いを馳せていた。

 それは「怨念に憑かれに」か? とは聞けない。そんなこと言えるか。

 代わりに、俺は俺の中から引っ張り出すことにした。

「俺は基本的に、人の中に歴史があって、歴史が人を作り人が歴史を作る、というスタンスだが。一人にしろ、世界にしろ、流れがあって。世界の流れが一人の流れに流れ込む。個人的な道程にせよスケールのデカい話にしろ、その時代に生きる一人を知ろうとすると、その前後を知らなくちゃならん。」

「はい」

 聞き飽きているだろう。でも、めんどくさい話でも聞こうとする。

「人間一人にも大きな歴史があるんだなって実感する瞬間、俺は凄い嬉しい。実際に現地に行ったりさ。」

 窓の外を流れる人を眺める。

「だから、俺はキミの人を知ろうとする態度、好きだよ。」

 彼は目を見開いた。

「キミは、俺の言葉に直せば、一人の歴史を全部知ろうとするわけだろ。」

「はい」

 顔を上げる。

「最初に会った奴……は知らんけど。そういう、なんだろうな……大なり小なり、色んなデカい問題が大量に積み重なって、爆弾処理もままならないまま、押しつぶされた結果出来た産物、だったのかもしれねえなって。そういうことってあるだろう。世界からの長い長い負の遺産を貰って、要らねえよって時が。」

 長い話が続く。彼は黙って聞いている。

「キミは優秀だけど、逃げ出したいって瞬間、山ほどあるだろう。夢を語りたいのに、逃げ出せない。心の持ちようとかじゃなく、子供だからってことが。ええと、文化的にも、政治的にも。」

 話を戻す。

「なのに、キミはたった一人で、キミが見てた奴も川の流れの一部でしかなかったりさ。もしかしたら、その先、更にその先でようやく、いきなり苦労が報われたりなんかして。」

「そうですね。俺だけじゃなく、色んな人がそうでしょう。だから俺はその濁った流れを」

「だけど。」

 目の前を車が通り過ぎて行った。時計がダラダラと時間を刻む。一つの生き物みたいなだカップルが目の前を通る。ふっと退屈な日常に押し戻される。

「けれどもキミは一瞬、長い人生の中でたった一瞬交差しただけの人で、なんのプロフェッショナルでもなければ、まったく別々の流れを持った、隣人なんだ。キミが見えてない、知らないことが山ほどある。それは本人すら知らない。」

 彼は固まった。まだ話を聞くだろうか。

「動いたお前は偉い。いつも動こうとするお前は、偉い。でも聖人でもなければ、神さまでもない。俺たちに特別な力はなんにもない。皆平等に木偶の坊だろう。お前が一人でそいつの全部を、なんとか出来るとは思わないし、そこまでの期待はしない。ああ、期待してないってのは、そんな重いもの背負わせられないっていう意味で。」

 高杉はしばらく息を吸った。上ずっていく。口を掌で覆う。

「本来なら、人間の一人分の傷は酷く重く、肩代わりはすることも出来ない。出来たら夢だ。」

 横を見ると、そこには9歳が居た。

 無垢な瞳でこちらを見上げる。

「……誰かから聞きましたか? 知ってるんですか?」

「……。」

 勘付いたか。どこで。

 しばらく言葉を反芻するのを待っていると、ようやく高杉は口を開いた。

「…………どうしてそんな……………ひ、酷いことを言うんだ………!」

「………。」

「なんでそんなこと言うんだ…………! じゃあ、じゃあ……でも……ッ! そんなワケないだろ! そうじゃなければ……勉強も……ッ! なにもかも……」

 高杉の目の中に、恐らくは女の子が映る。

「なんなんだよ! 諦めろって言ったり! 諦めるなって言ったり! 信じろって言ったり! 信じるなって言ったり! お前らが、さァ、人の気持ちを感じられるようになれって言ったんだろッ………………‼」

「……うん。でも、今そこから動けなくなってんだろ」

 俺ではないどこかを見ている。

 俺はその言葉の真意を知らない。

 本来は、そんなふうに人を恨むことのできる性格だったんだろうな。

 払った手がパーテーションを倒した。それを、丁寧に拾って直しておく。

 落ち着いたのは、ずいぶん経ってからだった。

 取り乱してすいません、と言いつつ、声色が怖い。

「……つまり、人間は分かり合えないって言いたいんでしょ?」

「そうかも。ただ、たださ。」

 恨めし気にこちらを見る。

「もちろん無責任になれとは言わなくて。考えて欲しいことが山ほどある。まだ課題が山積みだから。けど、そうじゃなくて、お前も一緒にズタズタになっていくんだろ。全部が全部、痛みまで再現しなくていい。……俺はただ、お前に……そんな風に……」

 そうだ、お前に。

「……生きたままヒーローになって欲しくないから。」

 掌のケガを見ると、さっと掌を後ろに隠した。

「ずっと悲劇が再演し続ける。爆弾が後ろにあって、幕が下りない限り延々と同じ人が居る。なのに俺らはその爆弾に気付けない。何回も。繰り返す。お前が出会えた何人かを肩代わりできたところで、まだ俺らの知らない所にいるよ、同じ人がさ。なのにそれをそっくりそのままお前は背負おうとする。」

「……先生の立場からしたらそうなのかもしれませんが」

 今は変わらなくていい。

「キミも、効果的な薬を探しただろ? 一瞬で地獄から救い出せる薬をさ。でも、出来ないや、変わらないわって気づいたから、全てに共通することを探したんだろ。でも、その二つだけじゃない。」

 触れたくないことが抽象的になっていく。触れたくないのは、俺のことだ。

「違うよ。別々の流れがある。だから良いんだ。置き忘れた心を誰かに拾って欲しい時もあるけどさ、別の角度から支えて欲しい時もある、な。それだけで良いんだよ。」

 俺は、黙っているのに安堵して、話し続けていて大丈夫だろうか。

「なあ、」

「なんですか」

「それで本当に救われたいのは、おまえじゃないか?」

 彼は答えなかった。酷い顔をしている。

「じゃあどうする。あの子を無視してたらどうすることも出来ないし、そうしていたら口を閉じてしまう」

 はは、と乾いた笑いを漏らした。きっと人の事は言えない。

「ちゃんと知ってたらいい。忘れないでいたらいい。ちゃんとそこに居ることを知っている、そんで」

 ゆっくりと、聞きやすいように言った。

「尊重する。大事にする。ね。キミだって聞かされてたはずだ。線の向こうで、でも投げられたもんは大事にする。本来、諸共地獄旅行する必要はねえよ。……難しいけどさ。うん。難しいよ。」

「……でもあるでしょ。助けられたって瞬間が」

「……俺がどっかでぼんやり言ったことを覚えられてて、それで救われましたって言われたら。俺は、それは」

 頭の後ろを掻く。背負っていかないといけない言葉が増えた。

「タイミングもあったんじゃないかな、と思う。」

 タイミング、とだけ言って、彼は静かになった。

 伝わりますように。

 それでも多分、高杉は止めない、止められない部分はあるだろうな、と思う。だって長いこと高杉の理想はそれだったから。

 だから、

「俺もその方法が未だに分からない。だからさ。」

 鞄の中から、本を取り出した。

表紙には『悩みの聞き方』とある。

「もっと勉強しようぜ。色んな事をさ。背負い方とか、友達の大事にするやり方とか。幸いなことに、同じこと思った人がごまんといるから。」




 これでいいのだろうか、と思った。

 これで良くなってくれ、と思った。

 もっとうまい言い方があったんじゃないか、と思った。

 その先は彼に任せるしか無いよな、とも思った。

 思った思ったって、雑な感想文みたいだ。

 俺はきっと、別々のことを言ってしまいそうで嫌だった。

 彼の選択を信じよう、というのがなんだか「これ以上は責任を取れないよ」と、とられやしないかと焦っている。今そんな事は言って居られない。こんな事を思うのは、まあ。

「ガキなんだろうな」

 結局、目の前でタバコの煙が浮き上がっていた。






「甘えたこと言わないでよ」

 と嘲笑う声が廊下を曲がったところから聞こえた。

 同僚の声だ。

 見ると、関口が俯いたまま、スカートの端を握っている。

 最初はこの二人は喧嘩していたのだろう。

 黙って聞いていればどんどんエスカレートしていく。

「ああそうそう、この間長屋先生との話聞いてたけどさ、夢で人助けするより変えられない現実見たらどう? 切り捨てなさいよ。そんなの信じてないから」

 気付いたら廊下のシャッターのレールを踏み越えて、俺は大声を出していた。

「……その子は! 現実見てますよ! 現実を見ながら理想を語れるのは立派じゃないですか⁉」

 同僚と初めて目が合った。驚くと若く見える。

「今すぐは無理かもしれないけど、だったら俺らくらいはその先のこと語る必要がありませんか⁉」

 俺は、話も聞かずになにをしているんだ。

 呆気に取られている二人と、振り返る廊下の学生。

 俺も大概若いよな、と、俺を俯瞰する俺がいた。

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