第13話
八月から九月の競馬開催期間はクラシックレースやG1レースはない。
さすがに場外馬券売り場の入場者数はかなり減るだろうと思っていたが、それまでと殆ど変わらなかったのが意外だった。
江田夏希は相変わらず毎週やって来た。
土曜日はたいていメインレースが終わるころまで館内にいたが、日曜日は午後に姿が見えなくなることが多かった。
父の愛人が午後早めに帰るようになったのだろうと思った。
声をかけると生意気なことを言い返す時もあったが、私の方からプライベートな事柄にアクションは起こさないので、pinoの夜以降は外で会うことはなかった。
そんなふうにして暑い夏も終わろうとしていた。
少し前までは、仕事を終えて浅草から隅田川を眺めながら、時々土手に腰をおろしたりしてゆっくり歩いて帰ると、ちょうどアパートが近づいてきたころに陽が沈み、綺麗な夕焼けが見えた。
だが、九月になると職場を出たころにはすでに夕陽が沈む体勢に入っていて、慌てて浅草寺を抜けて言問通りを隅田川方面に急ぐのであった。
九月も半分を終えた、ある土曜日の午後のことだった。
最近は四階五階、さらに六階フロアと週ごとに担当が替わるので、四階の六番柱を窺う回数も減っていた。
休憩を終えて、この日担当の六階へ向かっている時、四階フロアのエスカレーターを降りたところに夏季がいた。
そしていきなり「相談があるの」と言う。
上階へのエスカレーターにすでに足を乗せていたので、その言葉は背後からのものとなった。
一緒にエスカレーターで上がっていた五階担当の森本スタッフが「彼女、何か言ってたよ」と不思議そうに言った。
「何なんでしょうね?」と私は知らないフリをした。
六階フロアでは、この日久しぶりにラップのトクさんが来ていて、常連客たちを楽しませていた。
「トクさん、しばらく見ませんでしたね」
「入院していたらしいよ。どこが悪かったのかまでは知らないけど」と同じフロア担当の岡本先輩が言った。
記入したマークカードを発売機に投入するたびに、何やらブツブツ呟きながら身体をクネクネと揺するトクさん。
まるでラップを踊っているようだ。
その姿を少し離れたところから楽しそうに見守る常連客たち。
発売機の中にいる職員や女性スタッフたちも笑っている。
鉄火場での和やかなひとときである。
「トクさん、さっきのレースはどうだった?」
客のひとりが訊く。
「あんなガチガチのレースなんか当たらんよ。ワシは大穴狙いだかんな」
トクさんは小さな声でモゴモゴと喋る。
古いスタッフの話だと、山谷のドヤに住んでいるようだという。
私のアパートの近くだが、道で遭遇したことはない。
再び休憩タイムとなって、エスカレーターで一階へ降りる途中に四階フロアを覗いてみた。
六番柱あたりを窺うと、夏季が所在なげに立っていた。
「さっき、相談があるとか何とか言っていなかった?」
近くの記入台にいる常連客に聞こえないように、私はさりげなく彼女に近づいて小さな声で言った。
「聞いて欲しいことがあるんです」と夏季も囁くように返事した。
「どうしよう。仕事が終わったら隅田川のあの場所に行こうか?」
「うん、待ってる」と夏季は少し弾んだ声で返事した。
私は口元に人差し指を当てて、」声が大きいよ。じゃ、あとでね」と言って下りのエスカレーターに乗った。
最終レースが終わり、入退場口のシャッターが閉まった。
十八時前には陽が沈んでしまうので、控え室に戻ると私は急いで着替えて、誰よりも先に職場を出た。
隅田公園の土手から降りると、いつもの場所で夏季は待っていた。
ベンチに座って、今さっき点灯したであろう川向いのスカイツリーを眺めていた。
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