鉄火場ガール
藤井弘司
第1話
一 鉄火場が職場?
今日こそは平穏な一日で終わりそうだなと思っていた矢先、フロアの南端にあるフリーシートのあたりから怒号が飛んできた。
「何だ、テメエこの野郎、足を引っかけやがっただろうが!」
「狭いから仕方がネエだろうがよ!」
「バカ野郎、ワザとやりやがったくせによ」
私は立哨のお立ち台から飛び降りて、怒号が飛び交う地点へ客たちをかき分けながら駆けつけた。
七十席ほどあるシートの後部のあたりでにらみ合う初老の男性ふたりが、今にもどちらかが殴りかかりそうな険悪な表情と雰囲気であった。
周囲には関わり合いたくない知らぬ存ぜぬ顔や、また始まったのかとため息を吐く老人たちが競馬の予想紙を片手に成り行きを見守っていた。
「どうされたんですか?」
「こいつがよう、ワザと足をかけやがったんだ」
「ワザとじゃねえよ、椅子と椅子の間が狭いから足がちょっとはみ出てただけだろうが。ちゃんと足元を見て歩かんかい」
「何だと、この野郎!」
ふたりの間に分け入れた私の両腕を挟んでにらみ合い、罵声を飛ばし合うふたりの老人、今日もやっぱり平穏には終わらなかった。
「まあまあ、そんなに尖がらないで、穏やかに楽しみましょう。握手してください、それですぐに仲直りできますから」
けんかの仲裁に入ると、私は必ず握手を提案する。
すでにどちらかが暴力をふるってしまっていると、たとえ仲裁に入ったとしてもその場で収束することは困難で、鉄火場の胴元側の主幹や場合によっては警察を呼ぶことにもなるが、まだ口喧嘩の段階だと、この握手提案はわりと効果があるのだ。
「俺は別にいいよ、握手しろってアンタが言うなら」
「俺だって喧嘩なんかしたくないからな、かまわんよ」
私はふたりの手を持って、それを身体の前に導いた。
「ありがとうございます。楽しくやりましょう」
ふたりはバツが悪そうな顔をしながらも軽く手を握り合った。
「俺が悪かったな」と片方が言い、一方は「いや、俺はちょっと気が短くてな、すまんな」と苦笑い、その場はなんとかおさまった。
年老いた鉄火場衆たちは気が短い人が多いが、意外に素直な一面をも持ち合わせている。
私は毎週土曜日と日曜日は、都内の場外馬券売り場で館内警備と案内のアルバイトを行っている。
今でこそカタカナの愛着を感じる名称を付けてイメージアップを図っているが、昔は場外勝ち馬投票券発売所、ファンは場外馬券売り場と呼んでいたわけで、人々が金を賭けにやって来るわけだから所詮は鉄火場、或いは博打場である。
鉄火場衆という言葉の響きは、社会における半端人、異端者、さらにヤクザな世界に生きる人間を思い浮かべる。
同様に、高齢化社会の現代においては、人生の荒波に揉まれまくり負けまくった老人をイメージしてしまうのもやむを得ないことかも知れない。
私は関西の大学をどうにか卒業してから保険会社に就職したのだが、日本を代表するような企業でありながら、いまだに年功序列学歴主義が平然と残っていた。
いわゆる一流大学を卒業した高学歴者は、仕事能力に関係なく将来のポストが保証されている。
二流三流大学出や低学歴の社員たちは確実に追い越されて、親子ほども年齢が離れている社員に顎で使われている光景をしばしば見てきた。
結局、八年ほど勤めてから、新卒者が入社してくる前に私は職を辞し、久しぶりに旅に出た。
八年間、長い休みなど一度も取ったことがなかったので、先々の不安よりも自由になれたことの喜びのほうが遥かに上回った。
住んでいた大阪市内のアパートを引き払い、少し大きめのバックパックひとつで東へ東へと歩いた。
京都からは東海道五十三次に沿って江戸に向かって歩いた。
私はもう三十歳を超えていたが体力にはまだまだ自信があった。
途中、桑名宿があった三重県桑名市と沼津宿があった静岡県沼津市では、いずれも魚介類の美味しさに長居してしまったこともあって、三週間近くかかってようやく東京にたどり着いた。
東海道五十三次の起点である品川まで歩いてから、山手線で日暮里に出て常磐線に乗り換え、そして南千住で下車し、昔は山谷と呼ばれたドヤ街があった地域の簡易宿泊所に飛び込んだのが、桜の花もそろそろ散り初めるころだった。
数日間、のんびりと過ごした。
宿の近くでは、昼間から路地の片隅にしゃがんでカップ酒をあおっている老人や、その日の仕事にあぶれた人たちが集まってサイコロ博打に興じていたり、驚きの連続ではあったが、バックパックを背負った欧米人の旅人もチラホラ見かけた。
北区や足立区、荒川区などの都内の下町といわれるところを毎日歩き、様々な種類の庶民的な光景を楽しんだ。
一週間ほどがあっという間に過ぎてしまい、そろそろ何かバイトを探そうと思ってスマホで検索をしてみると、手っ取り早い警備の仕事が目に留まった。
『セキュリティースタッフ急募!』とあった就労場所は、ここから近い台東区浅草にあり、土日の競馬開催日に場外馬券売り場となるところだった。
仕事をしなくとも、贅沢をしなければ一年や二年は食っていける金は蓄えていたが、土日だけの仕事なら他の日は東京や周辺の散策にも回れると思い、募集先に電話を架けてみた。
「いつから来れそうですか?」
先方の担当者はいきなり訊いてきた。
勢いに負けて私は「いつからでも大丈夫です」と応えてしまった。
「では都合がよければ今日にでも一度こちらにお越し願えませんか?」
電話を切ってから支度をして、本社のある千代田区の事務所へ出向いたのが、鉄火場への第一歩となった。
本社での二日間の座学研修のあとは浅草の現場で研修を受けた。
仕事は場外馬券を買いに来る人たちがトラブルなく館内で過ごせるように警備と案内を行うわけで、たいして難しくはない。
ときどき客が貧血などで倒れることや、客同士が喧嘩をはじめたりすることもあり、それらに迅速かつ適切な対応をするのが主な業務である。
翌週の土日からいよいよ鉄火場警備員として働き始めたというわけである。
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