【短編】蛹だった子

郡楽

その他短編

企画応募作品:蛹だった子

 その部屋は、昼間だというのに遮光カーテンの所為で薄暗くて、放置された食べ物と酒の匂いが充満していた。


 ワンルームを陣取る水槽の青い光だけが光源で、柔らかい泡の音が絶えず響いている。ベッドに背を預けて片膝などを立てている家主は、スマホを耳に当てたまま煙草の吸殻を雑に押し付け、うんざりした様子である。


「っせーなあ、いい加減警察呼ぶぞてめー」


 鼻に皺を寄せて唸る美織みおりは、最後にそう吐き捨てると電話を切って、ローテーブルにスマホを投げ置いた。あたしが笑いながら次は代わりに出てあげよっかと言うと、彼女は不機嫌そうな顔のまま、それじゃお前刺されちゃうよと、ぬるそうな缶チューハイを煽った。


「しつけーんだよあのクソ野郎。頭と執念どーなってんだ」

「しつこさで言えばあたしも同じようなモンじゃん?」

「そーね。私にはあんたで精一杯だわ」


 美織は新しいタバコを取り出しかけて、思い出したようにそれを戻す。


 代わりに手に取ったのはチューハイとビタミンCのサプリ。本数を減らすとは前に言っていたが、本当に実行しているらしい。


「んで、何しに来たの」

「ピアス。空けてほしくて」

「あー前に行ってたやつ。どこに?」


 前にこの話をした時は、開ける場所も場所なので三十にもなってなんで今更? と首を傾げられたが、今日の彼女は案外協力的である。彼女の気が変わらないうちに横に座って、鞄からピアッサーを取り出す。


 染めたての髪を耳にかけると、美織の、白く細く冷たい指が首筋に触れて、親指の腹がそっと耳朶を撫でた。


 たったそれだけで美しい光が心に差し込み、心底に満ちた鈍色の泥を照らす。真剣な瞳であたしを見る美織は美しい。少し伏せた目、歪みのない鼻梁、涼しげな唇。


 最近黒染めしたらしい彼女の艶のある硬い髪が、その頬を掠めた。


 再就職のために就活を頑張っていると聞いたが、果たしてこの生活ぶりからしてそれは本当なのだろうか。あたしはそんなことを考えながら、美織と同じとこがいいんだからね、と念を押した。


「それは良いけど、お前、仕事どうすんの。看護師がこんなとこにピアスつけてんなよ」

「許可取ったもん。それに今日から夏休みってことでちょっと長く休み貰ったから。その間に透明なのに付け替える」

「ふぅん」


 さして興味の無さそうな返事はもう聞き慣れている。美織は手際よくパッケージを開けて、もう一度私の耳朶に触れた。


「いくよ」

「えっ、待って待って、ちゃんと場所確認した?」

「した」

「えっ、本当に美織と同じとこ?」

「多分」

「やだ、多分じゃやだ!」

「だってさぁ、ここ難しいよ。軟骨すれすれのとこだもん。だから動かないでよ。いい? いくよ?」


 彼女はそれ以上の合図も前触れもなく、バチン、と耳元に大きな音を響かせた。


 あたしの体がビクついたのを彼女は静かに笑う。


 吐息を漏らすだけの静かな声。あたしは彼女のこの笑い方が好きだった。憧れていた。部屋に飾られたビンテージのレコードも、よく分からない西洋絵画も、自分の好きなものだけに囲まれて生きている美織自身にも。


「上手く出来たわ。可愛いじゃん」


 そう言ってそっと髪を撫でてくれた美織は、少しお酒の匂いがしたけれどとても格好良かった。涙が出そうになって慌てて目元を隠すと、そんなに痛かった? と的外れな質問を投げられる。


「馬鹿ぁ、久しぶりに会うのになんでそんな普通なの」

「ごめんって、よしよし」


 寂しくなかったの、と言うより先に腕が回ってくる。美織と付き合っているのかいないのか、それははっきりさせていない。


 昔、数年前に一度だけセックスをした。まだ大学生だった頃、酔っ払った美織にキスをされて、あたしからその先を強請ねだった。したのはその一回きり。あたしはそのあとに彼氏が出来て、でも心はいつも美織を求めていた。


 濃い茶髪の毛先を少し巻いているのは、美織が女の子らしい子が好きだから。ピンクのブラウスに白いスカートを合わせているのも、美織が似合うと言ったから。


 当時、地味だったあたしの目に、美織はいつも輝いていた。


 彼女がくれる『可愛いよ』の言葉は魔法のようにあたしを変えてくれた。だからあたしは今日、美織を自分の体に刻み付けたかった。


「……結婚するの」

「らしいね。今の彼氏でしょ?」

「うん。って言ってもまだ婚約で、これから相手の親のとこに挨拶しにいくんだけど」

「いいじゃん。公務員なんだって?」

「うん……でも、あんまり会えなくなるね」

「別に、遊びにくりゃいいじゃん。鍵持ってんじゃん」

「浮気を疑われたりして」

「そしたら挨拶しに行くよ。愛人の美織です、なんちゃって」

「ふふっ、もう」


 やだやだやだ行くなって言ってよ、今すぐあたしを引き留めてよ。


 強張こわばりそうになる顔を必死で押さえて唇を噛んだ。丁寧に塗り重ねたグロスが剥がれていく。美織はあたしの口端に親指を置くと、口角をくいと上げて、そのまま軽く唇を重ねた。


「不安?」

「……」

「人生なんていつでもどうにでもやり直せるんだから、とりあえずやってみたらいいじゃん。あ、こりゃ駄目だなって思ったらやめりゃいいじゃん。いつでも戻っておいでよ」

「……あたし……怖い」

「うん」

「痛いよぉ」

「痛かったね。でもピアスで良かったじゃんよ。お揃いで」


 美織は私の手首を裏返して、そこに微かに残る傷を見た。


 普段はファンデーションで隠している。旦那になる人はこの傷も理解して受け入れてくれている。それでも不安が治まらない。


 開けたばかりのピアスホールがじくじくと痛む。


 あたしをそっと抱き締めて背中を叩く美織の腕と、その耳の痛みに囚われると心が少しずつ軽くなっていく。あぁ、今度からはピアスの数が増えていくんだろうなあ。あたしがそういうと、美織は笑いながら、馬鹿、と軽くあたしの背中を叩いた。

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