海底に愛
環 哉芽
海底に愛
愛は世界を救う。
そんな言葉をよく耳にする時期があった。
最近の人類はみんな、金が世界の全てって顔して愛なんて元から知らないみたいに生きている。
「愛は世界を救うかはわからないけど、——のことは救えるんだよ」
そう誰に聞かれたわけでもないのに、いつの間にか私の前に佇んでいた幸の薄そうな少女は口からぽろんと零して、こちらへ笑みを向ける。
私はというと、少女の向こう側にある乗る予定だったはずの電車が発車するのを見ていた。
再び少女へと関心を移した時には、そこにはすでに姿は無い——。
そこで私は目を覚ます。
「っ——はぁ、あ、……頭痛っ。」
夢から覚めた頭は重苦しくて、それとは裏腹に差し込む薄い膜のような朝日は儚げであった。
「
一階から扉を挟んでるとは思えない声量で母親の酒に焼けた声が響く、起き抜けに聞くこの声はとてつもなくうるさい。
母は私が一階に行くまで目覚まし時計のように叫び続けるのだ、最初は起こすような声掛けだが次第にソレは罵倒へと変わる。
こんな朝に馴染みがあるとはいえ、なんとも思わない訳ではないので、早々に身支度を整えて一階へと降る。
「……いいわよね、あんたはゆっくり眠れて私はあんたが居るからこの家から逃げられないの!早く行って、消えてよ!」
私の顔を視界に捉えるとダムが決壊したように罵倒が飛んでくる。
「お母さんはこんなに苦しいのにあんたはなんで知らんぷり出来るのよ!」
これもいつもの事だ。
私、
父は単身赴任先で愛人を作り帰ってこないし、お茶目だった母はそれ以来ヒステリックになってしまった。
そして私は向けられる言葉の切先で傷つかないように、心の中に何も感じなくなるスイッチを作った。
「いってきます」
ま、挨拶なんてしても誰も聞いちゃいないのだが。
追憶もそこそこに母の罵倒を背中で聞きながら家を出ると、家の前に人の気配を感じる。
「楓?」
「わ、バレちゃった、おは、よう。」
臆病な性格を表したようにおどおどと言葉を区切らせながら話す友人の
「毎日迎えに来るの飽きないわけ」
「へ?な、んで飽きるの?たの、しいよぉ」
女性らしい薄い両方の掌を左右に動かしながら私の意地悪な質問に否定を示す。
「あっそ」
自分から聞いておきながら興味なさげに返事をして通学路へと足を踏み込んだ瞬間だった——、ガラスが弾けたような音が響く。
私と楓は何事かと身体を強張らせたのも束の間、音の発生源に気付いた楓は私を通り越した上の方を見ている。
きっと視線の先は二階の私の部屋の窓だろう、立て続けに響く音の方へと振り向こうとした時。
「行こ、う!」
その行動は住宅街に轟くほどの大きな声に止まる。まるで振り返るのを咎められた、…気がした。
声の主は通学路とは逆の方に歩き出す、私は腕こそ引っ張られていないもののついていく以外の選択肢が浮かばなかった。
「楓、そんな大声出せたんだ。」
柳の葉のように歩く度に揺れ動く楓の黒髪を、ただぼーっと眺めながら頭に浮かんだ言葉を口にした。
「……陽凪ちゃん、を守るためだも、ん。」
楓はこちらも向かないで答えたかと思えば突然ぐるん、と体ごと振り返った。
「陽凪ちゃ、ん、…逃げよ、うよ。」
「え?」
「私と、逃げよう。私が、陽凪ちゃんを傷つけるものから、守ってあげ、るから」
今日の楓は珍しい事ばかりだ、いつもは怯えていて揺らいでいる瞳が今日はまっすぐにこちらを捉えている。
逆に楓の瞳に映った私は何かに怯えたような酷い顔をしている。
「逃げるったってどこに。」
「陽凪ちゃんが、陽凪ちゃんで居なくていいところ。」
「私が私で居なくてもいいところ?」
「とに、かく、遠くに…いく、の。」
それからの二人の逃避行が始まった、行き先は不明だというのに楓は迷いのない足取りで駅へと向かう。
人気のない駅から電車に乗り込み、座り心地の悪い座席に並んで腰掛ける、なんとなく気まずくてお互いに黙っていた。
学校をサボった後ろめたさと玄関先での光景に対する憂鬱感に耐えきれず、使い慣れたイヤフォンの片方を楓に差し出すと、一度不思議そうに目を丸めてから嬉しそうにはにかんで片方を耳に収めた。
もう片方を自分の耳に差し込めば、スマートフォンを操作する。断線しかけているのかたまにぷつぷつなんてノイズ混じりに流れ出した音楽の歪さは今のおかしな状況には心地良かった。
シャッフル再生で流れたのは皮肉にも、小さい頃にお母さんの車で聞いた曲だ。
「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」
なんてタイトルコールの後に強かなメロディーラインが奏でられる。
世界はそれを愛と呼ぶのなら、母の言動も愛と呼べるのだろうか。
ふと、そんな風な考えが顔を出せば脳内はその思考でいっぱいになる。
愛した相手が他を選び、古い家へ置き去りにされた母。
毎月生活費は充分に振り込まれるものの、一番求めているものは満たされない、他で満たそうにも責任感の強い母はきっと私の顔や父の顔が邪魔をするのだろう。
きっと人間は愛なくして生きれないのだ。
後ろ暗い思考が脳内に充満したころ
「捨てていいのに——」
そんな呟きが自然に溢れたが「終点」のアナウンスに掻き消された、私は楓の耳に弱音が届かなかったことに安堵した。
「おり、よっか……」
どこを見るでもなくただ私の瞳だけを覗き込んで楓が声を掛けてくる。
見知らぬ駅に降りると風に乗って磯の香りがした。
「海、の匂いが、するね?」
「すごく遠くまで来たみたい」
「すごく、遠く、きたん、だよぉ」
中身の無い会話を交わしながら改札から出ると、先程よりも強い磯の香りを感じる。
駅前にある日焼けして色褪せた案内板によれば数分歩いたところに海があるらしい。
互いに言葉も交わさずに目的地を海に決めれば案内板の地図に沿って下り坂になったアスファルトの道を進む。
「逃げ、たいと、自分で思ったことある?」
突拍子もない質問をする楓に驚くもここまで来たんだから今更かと、口を開く。
「お母さんが逃げられないんだから、私が逃げていいわけないでしょ」
「お母さん、は、陽凪ちゃんが居る、から逃げられないのかも知れ、ないよ?」
鈴のような声とは裏腹なきつい言葉が胸に刺さった、やめてよ、今は何も感じないスイッチはオフにしてあるんだ。
「陽凪ちゃん、がそう、思ってるんでしょ」
次いで繰り出される言葉は図星で、喉に石でも詰められたみたいに私は押し黙る。
「捨てて、欲しい、って思うのに、捨てないで、って祈るみたい、な、目してる」
「やめてよ!わかった風に言わないで!何にもわからないくせに」
「陽凪ちゃ、ん」
「しつこい、もう何も…」
「海、だよ」
何も聞きたくないと言いかけたのに被せて楓は嬉々として伝え、目の前を指差す。
指先に釣られるように視線を移せばそこには光を盛大に空から溢したみたいに輝く海が広がっていた。
綺麗、と口に出そうとした瞬間に鈍い痛みが頭へと走ったかと思えば視界がノイズ混じりに別の映像へと差し代わって戻る。
「私、ここ来たことある」
「う、ん。」
「家族で来たんだ、あの頃はまだ仲良くてお父さんも居て、お母さんも笑ってた。」
五歳の頃だった、家族で訪れた海ではしゃぎすぎた私は…溺れてしまったのだ。
溺れながら私は呑気にもしかするとこのまま沈んで魚の餌になるのかな、その魚をお母さんが美味しく料理にして、それをお母さんとお父さんが食べて…
そしたらまた家族のところに帰れるかもしれないなぁ、なんて考えながら意識を手放したんだ。
「だけど、私はお父さんに助けられたの」
父の手によって助けられた私は母に引き渡されたが、父は海から上がってくることはなかった。
大粒の涙が頬を経由して地面へとシミを作る。
「思い、だせ、た?」
「陽凪ちゃ、んも、お母さんも、信じたく、なかったんだ、ね。自分が、自分の愛する存在が、お父さんを亡くす原因にな、ったなんて」
「それで、お母さ、んは自己暗示、で自分を守った」
楓は次々に私の過去を語る。
それを私は不思議に思わなかった。
「楓は、…楓は、が作り上げたもう一つの私なんだね。」
「う、ん。幼い、陽凪の心、では、抱きれない傷やショックを私が代わりに受ける、ことで、陽凪の心を守って、たんだ。」
何にも感じないスイッチなんて元からなくて、昔馴染みでずっと私に寄り添ってくれていた友人もいなかった。
途切れる音楽のように話し、ここまで手を引いて連れてきてくれた昔馴染みの友人こそが向き合うべき私の心の欠片でありスイッチの正体だったのである。
「陽凪は陽凪を許し、てあげられ、るよね」
慈愛に満ちた声音で楓は私に語りかける、罪悪感も希死念慮も見透かしたような声で。
「愛されてないと思ってた、だけど私はもうとっくに大きな愛を貰ってたんだね。」
私の命がその証だろう、それを私は忘れようとして父の存在を無かったことにしていた。
母を悲しみから救うことは出来なくても、共有することは出来たのに、全てから逃げたのだ。
次々と溢れかえる感情に心臓はずっしりと重くなり、大粒の涙は堰を切ったように溢れ出てくる。
嗚咽混じりにごめんなさいやお父さんと繰り返す私の身体をぎゅう、と楓は抱きしめて幼子を言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「うん、みんな沢山…寂し、かったよね…大丈夫、陽凪は弱くない、でしょ、う?」
「弱い、よ…、ばか、でも私が向き合わなきゃいけないから連れてきたんでしょ…私が過去と向き合って受け入れたら楓は消えるのに」
「そうだね、けど私、は、陽凪ちゃんの一部だから元に戻るだけ。」
「——寂しいね」
抱きしめられて感じていたはずの体温はもう感じない、そんなことを脳の端で思いながらただ一言呟いた。
その呟きに鈴の音のように親友は笑って見せたあとうんうんと頷いた。
「けど、進まなきゃ、ね」
「今までありがとね、楓。」
「ねぇ、陽凪ちゃ、ん。愛は世界を救うかはわからないけど、愛は人を救うんだよ。」
あはは、と笑う声はどちらともなく混ざり合って人気のない砂浜に響いた。
寄せては返す波風の音の中に、ノイズ混じりの友人の声はもう聞こえない、だけど胸の奥は不思議と愛で満ちている。
冷たい風は私の髪を撫でて長く黒い髪は柳のように揺れ
草同士が擦れる音は羽根の音に似ていた。
海底に愛。
おわり。
海底に愛 環 哉芽 @tamaki_kaname
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