半兵衛温泉宿に滞在す
十三岡繁
半兵衛温泉宿に滞在す
半兵衛が滞在した温泉宿では女将の娘さんが下働きをしていた。初日に見かけた時から器量良しだなとは思っていたが、二日目にはその性格の良さも分かった。田舎の温泉宿にしては妙に食事が旨いと思ったが、聞けばその娘が作っているという。
女将の話では何でも三軒先の竹細工屋の息子と恋仲らしいのだが、いつになっても結婚の申し込みに来ないのだという。娘もいい年頃なのにこのままでは不憫だという。
「うむ。儂の知人で両国で大店(おおだな)を営んでいるものがいるんだが、その息子夫婦に子供ができなくてな。いい娘さんが居れば妾に紹介してくれと言われている。この若旦那が中々にいい男だ。悪い話ではないと思うが」当時家の存続は一大事なので、妾に子を産んでもらうなどという事はよくある話であった。
「お嬢さん程の器量良しであれば問題ない。最も妾とはいっても大店なので、上げ膳据え膳で料理の腕を振るう機会はなさそうですが」
まぁまぁそれは良い話だわと、女将は早速娘に申し伝えた。
三日目の夜に盗み聞きをするつもりは無かったのだが、その娘さんの若い男との会話が半兵衛の耳に入ってきた。
「千蔵さんは私が江戸に行って妾になっても構わないんですか?」
「僕はしがない竹細工屋の跡取りだよ。妾でも大店だったら玉の輿じゃないか。僕にはそれをとやかく言う資格はないよ」
翌日半兵衛は竹細工屋に土産を買いに行った。店先で作業をしている朴訥な青年がいた。お世辞にも二枚目ではないが真面目そうな好青年である。彼は半兵衛に気が付くと
「いらっしゃいませ」と軽く頭を下げた。
予想に反してと言ったら悪いが、店に置かれた竹細工はそれは見事なものであった。半兵衛は盛ざるを一つ買う事にした。青年が盛ざるを丁寧に和紙で梱包しながら半兵衛に聞く。
「お客さんお江戸の方だよね。大店であれば妾というのも幸せなものなんだろうか?」
「子を産んだら途端にお役目御免になって、遊女になる妾も多いらしいよ。江戸にいないと分からないかもしれないけどね」それは嘘だった。当時は妾であっても子を産めば主人の死後でも大切にされた。
半兵衛は当時としては珍しく戯作(げさく)で生計を立てている。宿帳には適当な名前が書いてある。彼の私生活は嘘で塗り固められている。しかし彼の書く戯 作には嘘が無い。食事のうまい温泉宿と細工のいい竹製品屋は、その後大層繁盛した。
親しい者は彼を『嘘つき半兵衛』と呼んでいる。
了
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