逢夢

幸馬コピー

第1話 序章

 松永久秀の心は躍っていた。

(ついにこのときが来たのだ。信長様と甲斐武田との戦のときが)

 久秀はかつて畿内で三好長慶ながよしに仕えていた。その頃から武田信玄の噂は、遠く畿内にまで轟いていた。

 関東管領かんれいであり越後の国主である上杉謙信、当時は上杉輝虎と名乗っていたが、たびたび将軍への挨拶のために京を訪れており、信玄と幾度となく戦ったことがある彼の口から、武田軍の強さが伝えられていたのである。

 東国の武士は強い。かつて源頼義、義家父子は東国の平定にとてつもない時間を要したし、源頼朝が平家を倒せたのは東国武士を味方に付けたからだ。現在、そんな強い東国武士の最たるものが甲斐の武田氏である、と。

 その信玄は二年前、元亀げんき四年四月に亡くなったが、後を継いだ息子の勝頼は、父の時代よりさらに版図を広げつつあった。

 そして今、天正三年四月。勝頼が三河に侵攻を始めたということで、織田信長の領内に緊張が走った。京にいた信長は三河救援の軍を発するため諸将を集めたのである。

(武田は強い。今まで関東管領殿の口からしか聞いたことのない、武田の強さを見られるのも楽しみではあるが、それを信長様がどう迎え撃つのかも興味深い。あの信長様が何の工夫もなく、武田と戦うはずがない。果たしてどのような工夫をみせてくださるのか)

 それが大敵との戦を前にしても心が躍る理由であった。

「揃ったな。ではこれより、三河へ出陣する者たちの名を告げる」

 信長が傍らの長谷川竹はせがわたけを促すと、彼は重臣たちの名前を次々に読み上げて行った。佐久間信盛、柴田勝家、丹羽にわ長秀、ばん直政、明智光秀、羽柴秀吉などなど。そしてここにはいない徳川家康の名前を読み上げると、

「以上の方々にございます」

 と竹は締めくくった。それを聞いて、松永久秀は思わず大声をあげていた。

「お待ちくだされ、御屋形様。私は行かずともよいとの仰せですか?」

 松永久秀には自負があった。自分は織田家でもかなりの実力者であり、信長からの信頼も篤いと。にもかかわらず、久秀の名が呼ばれることはなかったのだ。

「さよう。畿内の者たちの中では、明智光秀と佐久間信盛と塙直政の三人のみ参陣させると考えておる」

 信長はそう答えた。

 あの武田を迎え撃つのだ。織田家の有力武将は皆参陣するものと思っていた。だが信長はそう判断しなかった。

 久秀は行きたかった。そして参陣したかった。信長の戦いぶりを見てみたかった。これではまるで自分が信長に必要とされていないみたいではないか。

「松永殿。我らが呼ばれぬのは、それこそ御屋形様の信頼の証であろうよ」

 久秀の心の内を見透かしたか、なだめるように言ったのは細川藤孝である。

「我らまでが三河救援に赴いては、畿内の守りが疎かになる。我が織田家最大の敵は畿内におるのだ。それはできまい」

「石山本願寺か」

 久秀は藤孝を見る。次いで信長を見据えた。

「ならば何故先のお三方のみ連れて行かれるのですか?」

 信長は立ち上がると久秀の傍まで歩み寄ってきた。

「そなたを外したのはそなたのためを思ってのことなのだがな」

 信長はそう呟くと屈みこんで久秀の顔を覗き込む。

「そなた、わしと武田の戦が見たいのであろう?」

「そ、それは……」

 藤孝に見抜かれたのともう一つ別の思いを今度は信長に見抜かれ、久秀は狼狽する。

「ならば一つだけ教えてやろう。このたびの戦には多くの鉄砲を持って行くことになる」

「鉄砲」

 久秀は唸った。東国ではまだ数は少ないものの、畿内ではもはや珍しいものではない。堺や近江では盛んに鉄砲が作られているからだ。

「光秀は鉄砲の名手、塙には鉄砲の産地堺の統治を任せている。だからこの二人は連れて行かねばならぬ。そして佐久間は、三年前に勝頼の父武田信玄と実際に矛を交えておる。その経験は他の誰にもない。これら三人を連れて行った後、本願寺と戦うだけの力が誰にある? そう言えばそなたも納得できるか?」

 信長の説明は実に合理的であった。確かにこの三人が畿内の守りから抜けた上に、他にも畿内から人が抜ければ、本願寺は必ず攻勢に出る。

 だが信長が最後に付け加えた一言。「そう言えば納得できるか?」という言葉からは、それが建前の理由であることが窺い知れた。それでもその説明が合理的である以上、久秀も納得して引き下がるしかなかった。

 また信長は「そなたのためを思ってのこと」とも言っていた。久秀はもう齢六十六歳。すっかり皮膚の薄くなった自らの手に目を落とす。

(もう隠居せよということであろうか)

 多くの者は五十歳前後で隠居を考えるものだ。だが、それを二十年も過ぎてしまった。

 実際、久秀は息子の久通ひさみちに家督を譲り、一度隠居している。それからやむにやまれぬ事情があって当主に復したのだ。

 久秀の隠居、それは今から十一年前、永禄七年六月のことであった。

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