Episode 59 - マロカ・セオークの決断

「……ぐっ!」

「マロカ!」

 モスグリーンの小さな背が廊下の角に消えるなり、今度こそセオークの体は床に崩れ落ちていた。

「すまん、ルー」

「謝るのはあと! ドクター!」

「処置室に運んで。セオーク、

 強靱な意志を称えるべきなのか、はたまた頑固さに呆れるべきなのか、処置室に搬送した当初、危機的な状態だったにもかかわらず、セオークはうわごとのように「鎮静はあとにしてくれ」と繰り返していた。錯乱しているのか、とカーラは一瞬肝を冷やしたが、すぐにその考えは頭から追い払った。

 セオークは自分自身の状態を誰よりも理解している。もし、自身の制御が効かなくなった際、待ち受けるものが何なのか、それも重々承知しているはずだ。

 その彼が、危険を冒してでも深い眠りを避けたい理由は、カーラにも容易に察することができた。

「待ってくれ、先生。まだ……耐えられる。俺も説明が聞きたい。もしかしたら、これが最後になるのかもしれんのだろう?」

「ちょっと貴方?!」

「知っておきたいんだ、ルー。今後のためにもな。だからもう少し、待ってほしい。……頼む、先生」

 セオークの推測は正しい。

 配合が特別とはいえ、彼専用の鎮静剤は標準的なそれより数倍も高濃度だ。ただでさえギリギリな量であるうえに、涙幽者化が加速しはじめている今の状態で投与して、目を覚ますかどうかの保証はできない。

(私、威師失格ね)

 そもそも、断れるはずがなかった。

 セオークは、自分のだ。

 その頼みを無下にできるほど、カーラは人としての在り方を捨てたつもりはなかった。

「……2分だけよ。それ以上は縛ってでも眠ってもらうわ。その代わり! 軽い鎮痛剤をここで服用してもらうわよ? 詳しいことは、起きたらパートナーにでも訊くことね」

「恩に着る、先生」

 笑顔になっていない引き攣った患者の口吻へ、ため息の代わりに、常備してある錠剤を突っ込む。少々雑な処置だが、悠長なことを言っていられるほどの余裕はない。

「はい、じゃ手短に言うわね。セオーク、あなたがユニーカを行使できなくなったことで、自己抑制が効かなくなって涙幽者化が急速に進んでいる状態よ。何故、ここにきてユニーカが使えなくなったのかは、検査しないとわからない。ただ、思い当たる節はあるわ」

「……減薬の影響、かしら?」

「おそらくは。その因果関係についてもこれから調べるわ。だけど、今できることは、2つよ。1つは、セオーク専用の鎮静剤を投与し、ひとまず体を休ませる。幸い、鎮静剤の効果はあるようだから、これで一時的に涙幽者化を抑えられるけれど、知ってのとおり、副作用は否めないし、程度も予測が難しいわ」

「ならば先生、もう一つの選択肢は何だろうか?」

 問われることを前提に示した案ではあったが、いざ口に出そうとすると、勇気が要った。

 こんな案は、正気の沙汰ではない。

 威師としての自分が、頭の中でそう叫んでいる。仮に、同僚の威師がこの選択肢を患者に示したのなら、カーラは真っ向から反対するだろう。

(でも彼なら、迷わず選ぶんでしょうね)

「新薬の投与よ。私が開発したの。だけど、治験どころか、初期安全試験さえ試してない、出来たてホヤホヤの、いわば“ドラッグ”ね」

「ふざけないで。そんなもの、マロカに使わせるわけ、ないでしょう!」

「ルー、最後まで聞きたい。……先生が言うからには、ただのドラッグじゃないんだろう?」

「ええ、そう。もし、名前を付けるとしたら、〈スペクター・エリミネータ〉――涙幽因子除去剤、といったところね」

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