Episode 54 - 戦錠の危機

「――ルヴリエイト、頼む」

 炭素繊維で編まれた黒灰色のスヌードに指示を吹き込むまでもなく、セオークの頭上、上空でホバリング中の救助艇〈ハレーラ〉から極太のロープが降りてくる。

 牽引装置ホイストにつながれたその固定具を、〈ドレスコード〉した涙幽者の頭部、腰部、脚部の三点に固く接続したことを確認し、セオークは、巻き上げを意味するハンドサインを切り結んだ。

『マロカ! 7時の方向よっ!!』

 三角耳へ届けられた、ルヴリエイトの鋭い警告。

 ほとんど同時に、迫るを感じ取っていたセオークは、一秒に満たない逡巡の真っ最中にあった。

 後方にある冷気は、間違いなく涙幽者のユニーカによるもの。一方、その冷気に込められた激情は薄く、おそらくは遠距離型のユニーカだ。先に対象の動きを封じ、それから算段なのだろう。

(〈喜びジョイナー〉との混合タイプか?)

 経験から導き出した、ユニーカまでの距離は約20メートル。セオークの身体能力をもってすれば跳躍し、回避するのは造作もない。

 だがもし、ここでセオークが躱せば、ユニーカが昇降中の涙幽者を直撃する可能性が高い。そういった事態を想定して特殊制装が設計されているとはいえ、不用意なリスクは避けるべきだ。

 それに、ロープでつながった〈ハレーラ〉には、既に収容した涙幽者が何名もいる。年季物クラシックの機体らしくない堅硬さを持つ愛機だが、こちらも不必要な損傷は避けたいところだった。

 取るべき行動を決断し、さらに被害を抑えるべく、セオークは己のユニーカを解放する。

汝の哀しみにひとときの汀をLocking your sorrow.

 異名〈戦錠バトルロック〉の由来でもある、特殊型の精神感応ユニーカ。

 文字通り、対象とした相手の感情へ“鍵”をかけるように固定ロックし、一時的にその激情の波を押し止める。激情をトリガーとして荒れ狂う涙幽者にとって、まさしく切り札カウンターとなり得る絶技。

「ぐ……っ!」

 だが途端、昂揚感ではなく激しい眩暈に襲われ、セオークは足元のバランスを失っていた。絶対的な自信を持っていた平衡感覚が、まるで水に溶けるが如く、霧散していく。

 せめて〈ドレスコード〉した涙幽者の安全だけでも確保すべく、腕を伸ばすが、一度も重量など感じたことのなかった自分の腕が、今はひどく重たかった。

「……上昇、しろ……ルー……いそ、げ……」

「――ロカ!」

 ぼやけた視界が見慣れたモスグリーンを捉え、体毛を渦巻く風が撫でていく。

 その感覚を最後に、セオークの意識は暗闇の中へと沈んでいった。

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