Episode 16 - 朝の訪問者

 ――幸せな一日の始まりだった。

 朝食を済ませ、妻に出発のキスをし、二人の子どもに笑顔で見送られながら出勤する。

 ありきたりで、けれど深い満足感に満たされる、朝のひととき。

 だから、気づかない。

「――おはよう、KIA。今日も〈ネクサス〉まで頼むよ」

『おはようございます、マスター。たまには超特急モードでいきますか?』

「ははっ。まさか。いつも通り、安全運転でよろしく」

『承知いたしました』

 ビークルに乗り込み、冗談を告げてくるオートパイロットプログラムが滑らかに機体を繰る心地よさに身を委ねながら、短い通勤時間を無駄にしないよう、打ち合わせの資料を広げる。

「……あれ。なんでこんなところに芝生が……?」

 ホログラムプロジェクタを搭載する腕時計に触れた指先から、が生えていた。それは、休日になると子どもたちとよく走らせている芝刈り機に刈られ、飛び散った芝生と瓜二つで、だから首をかしげてしまう。

 今日は水曜で、先週末は家族旅行に出かけていたから、芝生には触っていない。

 剃った髭ほどしかないその棘を、おそるおそる抜いてみると、意外にも痛みはなく、すっと抜け落ちた。念のため、他の五指も見回してみたが、棘を生やしているものは見当たらない。

「う~ん。なんだろう」

 頭を働かせてみても思い当たる節が出てくるわけもなく、次々と新しい棘が生えてくるでもなく、かしげた首にやった手のも一向に消え去らない。

「おっかしいナァ」

 もちろん、自分の声が濁りはじめていることにも気は付かなかった。


 *   *   *


「――何なの、あなたたち?」

 玄関ベルを鳴らしてまもなく、怪訝な顔を浮かべてドアを開けた女性に、ティファニーは思いっきりの営業スマイルを差し向ける。

「どもー。カシーゴいちのピザ屋こと、〈スターダスト・ピザ〉接客担当、ティファニー・ロスです。ティファニーちゃんって呼んでくださいねー。こっちは仕入れ担当のベジー・ボーイ」

「だ、だから、その呼び方はやめてってばぁ……」

「ピザ屋? うちは何も頼んでないわ。間違いね、きっと」

 肩をすくめてドアを閉めようとする女性に笑顔を向けたまま、ティファニーはしっかりつま先を隙間に差し込んで閉められるのを防ぐ。こういう対応をされるのには慣れていた。

「やだなー、ミス・タイラ。こーんな朝っぱらからピザのデリバリーに来るピザ屋なーんて、さすがにいないと思いますよ?」

「……どうして名前を?」

「真面目な話、落ちついてくださいねー。実は私ら、こういう者でして」

 敢えてケバケバしいネオンカラーに設定していた〈ユニフォーム〉を、ハンドサインで即座に本来の色――ホープ・ブルーに切り替える。不審な表情だった女性の顔からサーッと血の気が引いていくのを認めつつ、ティファニーは踵でエドゥアルドを小突いた。すかさず、イヤコムに報告が返る。

『心拍上昇。でも反転係数はなし』

 涙幽者は、人類共通の脅威だ。成り行きがどうあれ、その出現は否が応でも感情を揺さぶる。

 そしてその出現を意味する蒼い外套を纏った人間が突如、玄関先に姿を見せれば、ますます感情を揺さぶってしまう。

 希望ホープは、容易に絶望へと転じる。

「そんな……っ!? どうしてレンジャーがうちに?!」

「深呼吸してくださいー。私らはパトロール中にちょびーっと、立ち寄っただけですから。その様子だと、けが人はいませんね?」

 案の定、胸を押さえて動揺を見せる女性に、ティファニーは冷静と明るさのバランスを取った声で確認を求めた。同時に、ドアが開けられたときから黄金色に輝いているはずであろう相方エドゥアルドのほうへ、わずかに頭を倒し、「で、どう?」とささやいた。

「半径20メートル以内に血痕反応なし。中に複数の熱源反応がある。大きさからして子どもっぽい」

「オーケー」

 少なくとも屋内に重傷者は出ていないらしい。そのことに安堵する一方、威療士としての勘が、“外れ”ではないと訴えていた。それを裏付けるように、今度は上空で待機中のパイロットから、別の報告が届いた。

『救命班、住居の裏手から微弱な反転感情を検知したよお』

『了解、向かいます。救護班は待機。こちらに誰も来ないようにしてください』

「ラジャー」

 続いたリーダーの指示に、ティファニーは嘆息を呑みこんでこれから起こるだろうことを、素早く思考する。ある意味、こちらのほうが負傷者の救命よりもハードだとつくづく思う。


 ――おかあさんを連れていかないで!!


 もはや、ルーティンさながらにフラッシュバックする遠い記憶を、これまた習慣になった手を伸ばすことで肯定する。後ろ手に握り返された温もりが、ただただ心強かった。

「キッズたちをよろ」

 すぐに動けるよう、体の重心を下げたところに、住宅の女性の「トーマス!」という呼び声が重なる。踵を返した女性を、ティファニーは背後から羽交い締めにし、「すこーし眠っててくださいねー」とグローブに内蔵されたナノニードルを、首筋に突き立てる。

「エド、行って!」

 ぐったりともたれかかってきた女性の体をそうっと横たえながら、ティファニーは相方に鋭く呼びかけた。――そのとき。

「――ママ?」

「っ」

 一向に戻らない母親を心配する幼い二つの顔が、部屋の奥から覗いていた。

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