第12話:賽は投げられた 中編

 苔ノ橋は待ち続けていた。

 アイツらが現れるのを。アイツらが来てくれるのを。

 そして、遂に現れた復讐相手。

 今も酒瓶を持つ不届き者は、千鳥足で歩いている。

 さぞかし、酒をたらふく飲んだのだろう。鼻歌混じりで上機嫌である。


(……コイツが、僕の母さんを殺したんだ)


 苔ノ橋剛は歩みを進める。

 最初は歩きだった。次第に、その歩みは激しくなっていく。


(コイツさえいなければ……母さんが死ぬことはなかったんだ)


 段々と歩みとは呼べない速度になる。

 早歩きになり、そして気付けば、苔ノ橋剛は駆け出していく。


(どうしてコイツは……僕の母さんを……)


 睨みを利かせたままに、刃物を強く握りしめたままに突き進む。

 その手に込めるのは、母親を殺された憎悪か。母親を失くした哀悼か。

 大切な人を失い、復讐心だけで動く化け物は腹の底から叫んだ。


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 一直線に走り出す。

 狙うは、相手の心臓。息の根を完全に止めるのだ。

 もしくは、狙えるのならば、首元でも良い。

 母親を殺した罪深き者に復讐の刃を報いることができるのならば。


「バチャ豚ッ!! 人殺しはダメだッ!」


(うるさい)


 たったそれだけで——。


「そ、それはダメだッ!! お前何をやってるんだ」


(はぁ?)


 ただそれだけの理由があれば——。


「それだけは絶対にさせねぇーぞ、バチャ豚ッ!!」


(消えろ)


 平凡な男子高校生は、悪魔にも化け物にもなることができる。

 人を殺しても構わないと当然のように思う人の心を持たぬ者に。


「バチャ豚ッ!!」


(失せろ)


 大事な人を失くしてから、苔ノ橋剛の瞳は腐っていた。

 ただ、今だけは輝いているのだ。大自然に浮かぶ夜空のように。

 この世界全ての憎悪を集め、それを凝縮したような瞳が——。


「剛くん、ダメえええええええええええええええええ〜〜〜〜!?」


(死ね)


 今、ここで初めて、燦々と輝きながらも、緩むのであった。

 この一発だけは絶対に外さないと確信を持って。

 遂に自分の母親を殺した相手への報復が終わると思って。


「——死んで詫びろ、クズ野郎。お前の行き先は地獄だがな」


 今宵の月と電柱の光に照らされ、鋭い刃が稲妻のように煌めいた。

 酒豪な男は動じず、何が起きているのかも理解していない様子であった。

 突如として現れた復讐鬼の姿に首を傾げ、もう一度酒を飲もうとする頃——。


「死ねぇええええええええええええええええええええええええええええええ」


 喉が潰れてしまうほどの大声を上げる苔ノ橋剛。

 まるで、地獄の門を開いたかのようだ。

 鋭く尖った刃を持ったままに、復讐の鬼はもう一度力を入れ直した。


 その瞬間——。

 空気を引き裂き、耳の奥に突き刺さる機械音が鳴り響いた。

 潜在的に大きな音に反射して動けなくなる遺伝子でも組み込まれているのか。

 苔ノ橋は、思わず、動きを止めてしまう。

 あともう少しの勇気さえあれば、目の前の男を殺せたはずなのに——。


「…………………………」


 鼓動が止まらない心臓。速度が上がった脈。頭の中には悶々とし、闇色に染まった感情だけが残っている。まるで部屋の端に残る埃のように。


「動くなッ!! これ以上動いたら……私たちは君を撃たなければならない」


 苔ノ橋剛の目に映ったのは、法律の範囲内で治安維持を守る存在——警察官。

 険しい表情を浮かべる彼等は銃口を向けているのだ。苔ノ橋剛に対して。


「……ふ、ふざけるなよ……悪いのはコイツだッ!! コイツだろうがッ!」


 憎き相手が目の前に居る。

 自分は今、刃物を持ち、襲い掛かれば敵を仕留めることができる。

 それにも関わらず、動けなかった。動いたら、逆に自分が殺されてしまうから。


「待て、君はまだ犯罪を犯していない。まだ君は……やり直すことができる」

「何がやり直すだッ!! 簡単に言うなァ!! 僕の日常は壊れたままだッ!」

「いいから……まずはその刃物を置くんだ。話はそれからにしよう」

「話……? 別にする必要なんてありませんよ、僕はコイツを殺す。それだけだ」


 一度は邪魔が入り、止まってしまった刃先。

 まだ割れても欠けてもいない。人を一人殺すぐらいには十分だ。

 苔ノ橋剛は木製の柄を力強く握りしめ、もう一度動き出す。

 撃たれる覚悟を持って。自分が死ぬことさえも運命かもと。

 しかし——。


「撃たないでください!!」


 苔ノ橋の前に現れたのは、鳥城彩花。

 月明かりに輝く長い黒髪を揺らして、彼女は現れたのだ。

 両手を大きく広げて、生徒を守ろうとする先生の鏡。

 ただ、彼女の場合は、それ以外の感情も混ざっているだろう。

 例えば、母性や同情、そして——贖罪の意識が。


「苔ノ橋くん……違うの。あの人は犯人じゃないよ……」

「えっ……?」

「……相手の顔は完全に忘れていたんだけど、思い出したの」

「思い出した……?」

「うん、実はあの日、匂ったんだよね、ジャス——」


 鳥城彩花の声を遮るように、警察官は言い放つ。


「いいから刃物を置くんだ、今すぐに!! そうしないと撃つぞッ!」


 あまりにも良いところで話の邪魔をされ、苔ノ橋剛は包丁を投げ捨てる。

 地面に叩きつけられた人を殺傷する最も身近な道具は、地面を滑っていく。

 それから、その刃は先程まで殺そうと思っていた復讐相手の元に辿り着いた。

 事件の目撃者である鳥城彩花が、犯人ではないと言っているのだ。

 ならば、この男をもう殺す必要なんてどこにもない。


「それで先生ッ!! 何が分かったんですか。教えてください」

「ジャスミンだよ、ジャスミン。あの日、ジャスミンの香りがしたの」


 ジャスミンの香り。

 苔ノ橋剛はお洒落にもインテリアにも疎い人間である。

 それ故に、ジャスミンの香りと言えども、全く分からない。

 ただ、この香りを放つ者が——自分の母親を殺したというわけか。

 それだけ分かれば、もう十分——



(………………えっ??????)


 鳥城彩花が抱きしめてきたのだ。柔らかな女性特有のカラダ。マシュマロのように弾力性がありながらも、ほんの少しでも力を入れてしまえば折れそうな体躯。

 それでも、自分を強く抱きしめてくれて、体温は物凄く熱かった。


「…………これで証明したことになるかな? 苔ノ橋くんを守れたよ」


 先生の背後に佇むのは、酒瓶を持っていた男の姿。

 口元を満足そうに緩めて、名も知らぬ不潔な男は笑い出す。


「ギャハハハハハハハハハハハハ」


 その声に連動して、鳥城彩花の身体が徐々に重たくなっていく。

 彼女を支えるために抱きしめてから、苔ノ橋は気付くのであった。


「えっ…………? う、嘘でしょ……?」


 担任教師の身体に刃物が突き刺さっていることに。

 それも、自分が先程持っていたはずの包丁が。

 自宅から持ち出し、最も刃渡りが長く、殺傷力が高いものが。


「これで少しは恩返しできたかな……?」


 今にも息絶えそうな声が耳元で囁いてくる。

 長い睫毛と切れ目の瞳は今にも閉じてしまいそうだ。

 息を切らして何度も深呼吸を整える彼女は続けて。


「……苔ノ橋くん。これで最悪でも地獄には行かずに済むかな……?」


 自分の手に付着した血を見て、苔ノ橋剛は戸惑いを隠せなかった。


「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ……せ、先生……?」


 苔ノ橋剛が投げ捨てた包丁を手に取り、あの男が鳥城彩花へと襲い掛かったのだ。身を挺して守ったばかりに、彼女は自分自身を犠牲にしてしまったのだ。

 生徒を守った先生とは聞こえがいいかもしれないが、それでも——。


「……生きてください……許しませんよ、僕は……こんな終わり方なんて」


 必死に呼び掛ける。それでも反応はない。

 刺された場所から血が溢れ出し、道路が真っ赤に染まっていく。

 その場に警察が即座に駆け寄ってきた。

 医療の知識も何もない苔ノ橋は、蚊帳の外になってしまう。

 でも、自分にできることは、ただ一つだけあった。

 それは——。


「ふざけるなよ……お前マジで……ふざけるんじゃねぇ〜よ!!!!」


 苔ノ橋剛は自らの巨体を生かして、鳥城彩花を刺した男へと体当たりする。

 吹っ飛んだ男は体勢を上手く取れず、背中側から倒れてしまう。

 そんな男の上に乗り、苔ノ橋剛は怒りの鉄槌を下した。


「お前のせいでッ!! お前のせいでッ!! お前のせいでッ!!」


 一発目、二発目、三発目——。


 何度も何度も殴り続ける。

 憤怒に駆られた心を制御できるわけもなく、苔ノ橋剛は喧嘩慣れしていない拳に力を入れて、振り落とすのだ。

 もう何度も何度も。


 それだけしか、今の彼にはこの怒りを抑える方法を知らなかったから。

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